創世記22章6~14節
今朝は、イサク奉献の物語を通して、神さまが、今の私たちに何をせよと言われているのか考えてみたいと思います。
アブラハムが100歳の時に、待望の子どもイサクが誕生しました。その命が奪われそうになる出来事が起こりました。神さまとの約束の地に、アブラハムは4人で向かいます。そして、僕とロバを残し、アブラハムはイサクと二人でその地に向かいます。アブラハムの足取りは重たかったはずです。息子のイサクが尋ねました。「献げものはどこにあるのですか。」アブラハムは、「きっと神さまが備えてくださる。」と答えますが、アブラハムは息子イサクを祭壇に載せてしばりつけ、そして切りつけようとしました。その時、「その子に手を下すな。」という天使のが聞こえ、イサクが犠牲となることは免れたのでした。茂みにいた雄羊がイサクの代わりに、焼き尽くす奉げものとされたのです。
聖書は、この物語を淡々と語っていますが、いったい何を語っているのでしょうか。わたしは、20歳の時に伝道集会に参加し、ほどなくクリスチャンとなりました。当時の私は、油絵が大好きで、フランスにわたって絵を描きたいという願いがありました。ところが、キリストを受け入れた時から、絵を描きたいという思いが薄れ、今に至っています。
当時の私にとっての大切な宝「イサク」は、「絵を描きたい」という思いことでした。その「絵を描きたい」という思いの代わりとなってくださったのが、イエス・キリストだったのではないかと思います。わたしにとっての大切な宝「イサク」は、失われたのではなく、わたしは、宝をかえることができました。その宝とは、「十字架の備えられた教会」ではないかと思っています。
もし、私がフランスにわたっていたら、野垂れ死をしてしまったかもしれません。病気を患った両親を迎えることもできなかったことでしょう。今51年目を迎える私の会社もなかったかと思うと、神さまはなんとありがたいことをしてくださったことかと思います。全てが神さまのなせる業であったと思うのです。