アブラハムの召命と祝福

 創世記12章1~9節

 今日のお話は、「アブラハムの召命と祝福」という題が付いています。先ほど、聖書を読んでくださいましたが、アブラムは、(当初アブラハムはアブラムという名でした。)、「わたしが示す地に行きなさい。」という主の(神さまの)声を聴きます。もしかしたら、アブラムはその声が神さまの声であったことを知らなかったかもしれません。誰かが、「わたしの示す地(いうところ)に行きなさい。」というのです。「示す地」とはどこでしょう。どのようにしめしてくれるのでしょう。それは、何も語られていません。その理由や目的も語られていません。どこに行くのかもわからない。何をするためにそこに行くのかもわからない。しかも、「生まれ故郷、父の家を離れて行きなさい。」と言われるのです。慣れ親しんだ生まれ故郷には、アブラムの全てがあります。多くの親族や友達、慣れ親しんだ人たち。そして、数々の思い出がそこにあるのです。それらをすべて捨てて行きなさいというのです。

 ところで今日のお話は、今から4000年も前のものです。アブラムの一族は、バビロンという国に流れるユーフラテス川の岸辺の町ウルに住んでいました。聖書の一番最後にある地図の「1聖書の古代世界」という地図を見てください。ウルでは、人々は、月の神さまを拝んでいたそうです。ある時、アブラムの一族は、お父さんのテラに連れられて、らくだに荷物を積んで、ヒツジやヤギを連れて、ユーフラテス川を遡り、カナン地方の北にあるハランに向かい、そこに住み着きました。そのハランで、アブラムはさっきお話した「わたしが示す地に行きなさい。」という声を聴いたのです。この声は、実は、私たちの信じる「天地万物をつくられたただお一人の本当の神さま」の声でした。でも、アブラムには、その声が、まだ誰のものなのかわからなかったはずです。しかし、アブラムは、その言葉に従うことにしました。なぜでしょう。

 その言葉の中に繰り返し出てきた言葉にヒントがあります。もう一度読んでみますね。実は、「祝福」という言葉が5回も繰り返し出てくるのです。「祝福」というのは、「神さまの恵みと愛が豊かに与えられ、神さまが共にいてくださる」ということです。その祝福がアブラムに与えられ、彼が祝福の源となって、(さっき、子ども中心の礼拝がアメリカの教会で行われたのがルーツとなって、世界中の教会で子ども中心の礼拝が行われているというお話をしましたが、)アブラハムに与えられた祝福が、アブラハムをルーツ(出発点)となって、地上の氏族全てに広がり、みんなに祝福が与えられるというのです。アブラハムさんは、きっとよくわからなかったことでしょうが、「だれかがわしを通して、すばらしいことをしてくださるのだろう。」そのように考え、その言葉を信じたのです。

 彼は、行動に移しました。奥さんのサライさんとおいのロト(死んだ弟さんの子どもだったそうです。)そして、ヤギやロバを連れて、引っ越しの旅に出ました。しかし、その旅は、とても厳しいものであったはずです。泊まる家がありません。食べ物も十分にあるわけではありません。周りは、岩と乾いた砂ばかりの砂漠のようなところを何日も何日もかけて、歩き続けました。
カナン地方に入った時、アブラムに、再び、神さまの声が聞こえました。「あなたの子孫にこの土地を与える。」という声でした。アブラムは、そこに祭壇をつくり、神さまに感謝して、私たちがしているように礼拝を捧げました。そして、翌日にはまた、そこを出発し、旅をつづけたのです。カナン地方というのは、アブラムのお父さんのテラがウルを出発した時、目指していたところでした。アブラムは、この時、お父さんの夢を実現したことになります。カナン地方は、気候がよくて、土地も豊か。作物がよく実るところだったのでしょう。しかし、すでにカナン人が住み着いていました。後から来たアブラム一族が、住み着く場所はありません。カナン人は、強力な武器も持っていたらしく、新しくやってきたアブラム一族は、行く先々で、追っ払われたことだと思います。それでも、アブラムは、旅を続けます。天幕を張り、そこに祭壇を築き、礼拝を捧げました。そうやって、礼拝を捧げて神さまの声を聴きつづけました。新たに進む道を決め、旅をつづけたのです。

 このアブラムの旅は、実は、わたしたちの生活ともよく似ています。アブラムは、とても有名で私たちと大違いのように思いますが、失敗もたくさんし、よくないことも何度もしています。私たちと同じように、罪を犯してしまうのです。しかし、そんな時、アブラムは、礼拝を捧げて神さまの声を聴き続けました。自分がどうすればよいか、その声をヒントに考えたのでしょう。そして、次の行動を続けました。私たちも、日曜日ごとに教会で礼拝を捧げています。神さまの声を聴き求めています。そして、明日からの一週間の旅に出るのです。その一週間には、何があるかはわかりません。うれしいこともあるでしょうが、もしかしたら辛いことや思いもよらない試練にぶつかることがあるかもしれません。それでも、とどまり続けることはできないのです。

 アブラムは、のちに、神さまからアブラハムという名前を与えられました。ラが付いただけですが、「アブラム」は「高貴な父」という意味。「アブラハム」は「多くの国民の父」という意味です。「素敵なお父さん」から「多くの人たちの素敵なお父さん」というような感じでしょうか。多くの人たちのお父さんになるというのは、子孫が非常に多く増えて、その中から「多くの国民」が誕生するということを示しています。国民というのは、本物の神さまを信じる人たちにだけ与えられる言葉かもしれません。

 さきほど、わたしたちとアブラハムは似ているという話をしましたが、実は、わたしたちもアブラハムと深くつながっています。それは、彼が「祝福の源」となってくださったことで、私たちも神さまにつながることができているということです。わたしたちが、イエスさまにつながることができているこの恵みのルーツは、当時のアブラムさんが、神さまの言葉を信じ、その言葉に従ったことに出発点があったのですね。

 アブラハムさんは、大切なことを教えてくれます。一つ目は、神さまは、私たちを祝福してくださるということです。アブラハムにあったように、神さまが私たちのそばにいてくださっているのです。そして、二つ目は、神さまの祝福に応えて神さまの声を聴き続けるということです。思い通りにならないこともあるかもしれません。しかし、神さまは、自分勝手な私たちを赦し、私たちに必要なものを備え、守り続けてくださっています。そして、三つめは、神さまの召しには、年齢制限はないということです。アブラハムが神さまから「わたしの示す地に行きなさい。」という召し(命令)を受けたのは、75歳という年齢でした。今の年齢とは少し違うようですが、高齢であったことには間違いありません。何歳になっても、神さまは私たちに召しを与えてくださるのです。