アダムとエヴァ

 神さまは、私たち人間をご自分のお姿にかたどって造られました。かたどってというのは神さまのお姿に似せて造られたということです。神さまは色々な生き物をお造りになられました。空の鳥や海の魚、そして地上に生きる全ての生き物を神さまは造られて命をお与えになられたのです。でも神さまのお姿に似せて造られたのは人間だけ、私たちだけです。何故、神さまは私たちをご自分のお姿に似せて創造されたのでしょう。何か不思議なことのようにも聞こえます。でも決して聖書は不思議な話を伝えているのではないのです。神さまは私たち人間をどの生き物や動物よりもかけがえのない大切な存在として私たち人間を造られたのです。それが私たちを神さまがご自分にかたどって創造されたという理由です。
 その神さまが「人が独りでいるのは良くない」と言われたのです。そして「彼に合う助ける者を造ろう」と言われたのです。私たちは一人で頑張って一生懸命に生きる存在ではないというのです。人間はひとりぼっちで孤独にいるのは相応しくないと神さまはお考えになられたのです。他の人と一緒に生きるそういう存在として神さまに造られたのです。「助ける者」というのは、話しかければそれに答えてくれる。喜びを共に喜び、悲しみを一緒に悲しんでくれるそういう関係です。それが「助ける者」ということです。神さまはそうして私たちを共に生きる者、他者と交わりを持ちながら生きるそういう存在として私たちの命をお造りになりこれを生かそうとなさったのです。
 今日の聖書を見ると最初に神さまは野に住むあらゆる獣、それから空を飛ぶ鳥を造られてそれを人間の所に持って行かれたと書いてありました。そしてその生き物に人間がどのような名前を付けるかご覧になられていたというのです。名前を付けるというのは、親しみを示すことです。私たちは色々な動物の名前を知っています。鳥の名前も知っています。そして親しみを抱いています。皆さんの中にべットを飼っている人がいるでしょう。猫や犬に名前を付けますね。それは自分のペットに愛着があるからです。神さまは沢山の生き物を人間の所に持ってこられました。動物やペットを飼って嬉しいことや楽しく感じることはあると思います。慰められたり励まされることもあるでしょう。でも今日の聖書を見ると、「(人は)自分に合う助ける者は見つけることができなかった」と書いてあります。見つけることができなかったというのは、人間が人間として本当に生きていくことを助ける存在が、動物や鳥やその他の生き物の中にはいなかったということです。
 そこで神さまはどうなさったかというと、人を深い眠りに落とされて、その人のあばら骨の一部を抜き取られて、それで女を造り上げられたというのです。神さまは人間を男と女に造られたのです。そして女を人の所に連れてこられたのです。すると人は「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう まさに男から取られたものだから」と叫んだというのです。神さまは男のあばら骨からもう一人の人間を造られたのですが、これは同一人物。コピー人間ではありません。別々の人間同士です。お互いに相手が持っていないものを持っているそういう存在です。だからお互いに助け合って補い合って、生きていくことが出来ます。それで男は叫んだのです。これは心からの喜びの言葉です。人間が人間として生きるようになる。それは他の人との交わりを与えられて初めて生きることが出来るのです。人は一人では生きていけません。神さまが人間を男と女に創造されたということは、男と女がお互いに助け合いながら、補い合いながら、励まし合い、慰め合い、共に喜び、共に悲しみ、そして生きていく。そういう関係、絆に結ばれて私たちは初めて、神さまに造られたかけがえのない存在として生きることが出来るのです。私たちは成長してやがてお父さん、お母さんの元を離れて一人で生きていきます。でも神さまは必ず、私たちに合う助ける者をお与えになられます。また逆に神さまは、私たちを相手を助けて共に生きることの出来るそういう人間にお育て下さります。そのように私たちを神の似嚢として造られた尊い人間として歩ませ生かして下さるために必要なものをお与え下さる神さまに感謝して、歩んで参りたいと思います。