3月2日から始まった受難節ですが、今日からは、受難週に入ります。今日は、イエスさまの十字架が自分にとってどんな意味をもつのか、確認したいと思います。
イエスさまは、朝の9時に十字架につけられました。雲が全地を覆い、暗くなったと聖書に書かれています。全地が支配していたのは、闇であり、そんな中、絶望の淵にあったイエスさまを、周りの人は嘲笑しました。そして3時に、イエスさまは、大声をあげられ、息を引き取られました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。この叫びとともに、人間の罪の代わりとなって、イエスさまが命を落とされたのです。
その時、神殿の垂れ幕が、真っ二つに裂けたと聖書に書かれています。垂れ幕とは、至聖所といって神殿の一番奥にある部屋、そこには神さまが臨在すると考えられていました、そこを隔てるための垂れ幕です。大祭司が一年に一度だけ入ることができる場所で、それ以外の人は一切入ることが許されない場所でもあったのです。その垂れ幕が避けたというのは、神さまへの道がすべての人に開かれたということを意味しており、人間が神さまと顔を合わせ、神さまと交わることができるようになったのです。
そして、その時、百人隊長が、「本当にこの人は神の子どもだった。」と言いました。百人隊長は、イエスさまが、「アッパ、父よ。」と神さまを呼び求める姿や十字架につけた人間のために、イエスさまが祈られる姿を見ていました。そして、この言葉をお弟子さんではなく、異邦人である百人隊長が告白したことの意味は、イエスさまの愛が、全ての人に及ぶものであったことを表しています。
このようにイエスさまの十字架上での死によって、私たちは、神さまの前に出ることができるようになりました。新しい一年が始まりますが、この一年も神さまの祝福がありますように、礼拝を守り続けたいと思います。日々の生活の中には、不安もあり、緊張もあります。ある大学生は、どんなときにも神さまがいてくださるということがよく分からないと言いました。「自分で何とかしないといけないじゃないの。」というのです。でもある教会の牧師夫人は、80歳くらいの高齢の方で、いろいろなご苦労をたくさんされてきた方です。その方が、ぽつりと「いろんなことがあったけどね、どんな時にも神さまがいてくれたのよ。そのことが一番うれしかった。」と言われたのです。悩みの中にある時には、イエスさまに守られていることが、分からない、気が付かないということがあります。でも、後で振り返ってみた時、やっぱり神さまがいてくださったということが分かる時がきっと来ると思います。