3月2日(水)から受難節に入ります。これは、主イエスが、私たちの罪を贖うために、十字架への道を歩まれたことを覚える時です。主イエスは、エルサレムに上る途中、3度十字架の死と復活の予告を弟子たちに話されました。しかし、弟子たちはだれもその意味を理解できませんでした。その後、主イエスは、ゲッセマネで祈りを捧げ、ユダの裏切りにあい、逮捕されて、裁判にかけられます。そして、十字架への道を歩まれるのですが、その前の晩、主イエスが、十字架の犠牲となられた前夜の出来事として、最後の晩餐があります。
主イエスは、パンを裂き、弟子たちに配りながら言われました。「とりなさい。これは、わたしの体である。」そして、皆が杯から飲んだ後、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。これが、最後の晩餐にて、イエスさまが語られた言葉です。
では、このイエスさまの言葉には、どんな意味が込められているのでしょう。それは、主イエスキリストが、父なる神さまに、ご自身の体(パン)と流される血(葡萄酒)を、犠牲として捧げられたことを表しています。人間の罪を救うための犠牲である主キリストの身体と血が、復活の主の命にあずかるための新しい契約(約束)であるということであります。そしてそれは、弟子たち、私たちが、信仰を告白し、神の民となることを示しています。
このように聖餐の制度は、主イエスが定められたものです。そして、教会の聖礼典の制度として定められました。何時から始められたかというと、初代教会の礼拝で始められたことが、「コリントの信徒への手紙」においても記されており、世界中の教会で行われてきました。松山城東教会でも、教会歴の重要な聖日や第一聖日礼拝の時に、行われています。ところで、礼拝は、聖餐台を中心に守られてると言われます。それは、どういう意味でしょう。決して台を拝むわけではありません。目には見えませんが、十字架に犠牲となられた主イエスの体をパンとして、流された血潮を葡萄酒として見るため、十字架の救いの御業を心の目、信仰の目で見て感じるために、聖餐台があるのです。
私たちの信仰は、主イエスキリストが、私たちを罪からの救いのために十字架の犠牲になってくださった真実の出来事を信じて告白することから始まります。そして、週ごとに牧師先生から語られる説教は、聖餐の聖礼典と並んで、この主イエスキリストの十字架の救いの御業の出来事が真実であることを解き明かし、告げ知らせてくれる大切なものであるのです。