べタニアで香油を注がれる

 今日の聖書の箇所ですが、これは、イエスさまが、十字架にお架かりになる数日前に、べタニアで起こったの出来事です。べタニアというのは、エルサレムから3キロほどしか離れていないオリーブ山の山頂のすぐ向こうにあったそうです。そこに、思い皮膚病を患っていたシモンという人がいました。この人は、マルコによる福音書1章40節にできてきた人で、イエスさまに思い皮膚病を癒していただいた人でした。その時のお礼を心からしたかったのでしょう。シモンはイエスさまを自分の家にお招きし、食事を用意して、もてなしていました。重い病気から救われたことを喜び、心からイエスさまに感謝の気持ちを伝えたかったのだと思います。
 そこに、一人の女の人がやってきました。その人は、石膏のツボを持っていました。その中に入っていたのは、ナルドの香油でした。ナルドというのは、ヒマラヤ山中でとれる宿根草で、そのナルドからとれる香油は大変高価で、それぞれの家の財産でした。そんな大切な香油を入れた壺を女の人は、壊し、頭からすべてを注ぎかけたというのです。実はその香油は、大人が一年間かけて働いて得ることのできるお金、年収というのですが、それくらいの値打ち、300デナリオンと聖書には書かれていましたが、それくらいの値打ちのあるものでした。今のお金で言えば、300~500万円くらいのお金になるのではないかと思われます。そんな高価な香油をイエスさまの頭に一度に注ぎました。シモンの家には、香油のすばらしい香りが、いたるところにまで広がったことでしょう。

 その女の人は、どうしてそんなことをしたのでしょう。マルコによる福音書には、この女の人については説明されていませんが、ルカによる福音書では、この女の人のことを罪深い女と記しています。何かわけがあり、周りの人から虐げられながら生きていた人のようです。その人が、大切な財産の香油をすべてイエスさまに注ぎかけたのです。この女の人はきっと罪に苦しんできたのでしょう。周りの人から虐げられて生きていくことに苦しんできたのでしょう。イエスさまなら何とかしてくださると信じ、全ての望みをイエスさまにかけて、自分の持っているものをすべてさし出して、イエスさまに自分のすべてを委ねたのでした。

 ところがその時、周りにいた人たちから、思いもしなかった声が聞こえてきました。「何という無駄遣いをしたのだ。この香油を売ってお金に換えたら、たくさんの貧しい人たちに施すことができたのに。」そう言った声でした。確かにその言葉はもっともことかもしれません。香油のうちの少しだけイエスさまにお注ぎして、残りをお金に変えたら、確かにたくさんの貧しい人たちに分け与えることができたことでしょう。女の人は、「しまった。」と思ったかもしれません。「愚かなことをしてしまった。」と思い、自分のしたことを後悔したかもしれません。「最後の最後に置いてあったこの全財産の香油を、わたしはおろかな方法で無駄に使ってしまった。もう私は救われることはない・・」と目の前が真っ暗になってしまったことでしょう。注いでしまった香油はいまさら取り戻すことはできません。家中に広がった香りをかき集めることはできないのです。

 その時、女の人は、顔を上げることができなかったに違いありません。地の底に沈んでしまいそうだった彼女の心に、今度は、イエスさまの声が聞こえてきました。「なぜこの人を困らせるのか。わたしによいことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限りのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」そのようにイエスさまは、話してくださったのです。イエスさまは、女の人のしたことをとても喜んでくださったのです。それは、いったいどうしてだったのでしょうか。

 周りの人たちの言った「売ってお金に換えたら、貧しい人たちに施すことができたのに」という言葉は、確かにもっともらしく聞こえます。世間の常識で考えたら、その通りかもしれません。しかし、そういった人たちは、彼女を厳しくとがめたと聖書に書いてあります。どうして、その女の人を激しく𠮟ったのでしょう。その人たちの心の奥底にあったのは、どういう心だったのでしょう。それは、わたしは、自分の心を振り返った時に思い当たるのですが、何だかもやもやした思い、心の底から、その女の人の行いに拍手を送れない思いが、周りの人にあったのだと思います。この女の人は、自分のすべてをイエスさまに捧げました。まじりっけのない純粋な思いでイエスさまを信頼し、自分のすべてをイエスさまに捧げることができたのです。自分の持つ石膏の壺をわることができたのです。しかし、周りにいた人たちには、それは、できませんでした。まだ、自分の石膏の壺を割ることができず、壺の中に自分の大事なものを隠し持ったまま、イエスさまの前に立っていたのです。そんな自分をごまかすため、正当化するために、貧しい人に施したらよかったと理由を付け、実は、彼女の行いにけちをつけていたのです。そんな周りの人たちの気持ちは、わたしもよくわかります。自分がやりたい、やったらいいと思っているのにできないことを、周りの人がやっているのを見ると、けちをつけたくなる。そのことで、できない自分の心を納得させようとする。そんな弱い心は、きっと誰にでもあるのでしょう。

 イエスさまは、まじりっけのない女の人の捧げものと献身を、心から喜ばれました。そして、女の人のしたことの意味をお話になりました。イエスさまは、この後、数日後には十字架にかかり、命を落とされます。その時には、墓に入れられ、埋葬されるのですが、そんな自分の体に香油を注いて、準備をしてくれたと言って、女の人の献身の意味を、女の人にもそして、周りの人たちにも解き明かしてくださいました。一度は、目の前が真っ暗になりそうだった女の人の目に、きっと涙があふれ、女の人は、イエスさまに心から感謝しながら、家に帰っていったことでしょう。イエスさまは、この数日後、全ての人間の身代わりとなって十字架にかかられます。そして、人間の罪が赦されるために、命を落とされます。しかし、イエスさまの体には、そして心には、女の人の献身のしるしとして捧げたナルドの香油の香りがきっとしみ込んでいたことでしょう。そして、女の人は、イエスさまの言葉を思い出し、自分の罪が赦されたことを心から信じることができたのではないかと思います。

 今日のお話の原稿をまとめていて、わたしは、もう一つの別の女の人の話を思い出しました。先々週にお話しくださった「貧しいやもめが献金する」というお話です。お金のない貧しい女の人が、2枚のコイン(100円ほど)の献金をしました。周りの人からは、「たったのそれだけか。」ときっと白い目で見られたことでしょう。しかし、それは、女の人の持つすべてのお金でした。その献金をイエスさまは、とても喜ばれ、「だれよりもたくさん入れた。」と言われました。今日のお話で出てきた女の人の場合は、高価な何百万円もする香油でしたが、貧しいやもめと今日の女の人には、共通するものが見られます。それは、まず、周りの人間からは決して評価されていないということです。馬鹿にされたり、ケチをつけられたりしています。しかし、イエスさまは、何よりも喜んでくださいました。それは、できる限りの心からの献身であり、純粋にイエスさまや神さまに対する信頼から生まれた行為であったからでしょう。人間は、目に見える表面的なものからものを見ようとします。そして、理に適った人間的な考えで、人の行為を評価しようとします。しかし、イエスさまは、その人の行為の元にある本質的な思いや考えを一番大切に考えてくださっているように思います。周りの人の目はごまかすことができても、イエスさまや神さまの目はごまかすことはできません。自分の心にきちんと向かい合って、自分をごまかさずに生きていくこと、そして、何より、この二人の女性のように、純粋に神さまを信頼し、自分のすべてを委ねて生きていこうとすること。その大切さを教わることができた聖書のメッセージでした。あるHP(めんどり通信)を見ていると、次のようなお話があったので、最後に引用させていただきます。

「イエスさまを受け入れるということで、一旦、クリスチャンになり主に従っている者であっても、その人の内に石膏のつぼを割らずに持っていたのでは、高価な聖霊の働きをみることができなくなる。石膏のつぼは、結構頑丈である。堅い。そして、心の奥底に秘めているもので、なかなか本人が気づきにくいかもしれない。そして、ともすれば、へりくだることを妨げるものとなり得るかもしれない。しかし、割る気がある者、つまり本当に、自分自身を主にゆだねきって主に従おうとする者には、神が教えてくださり、割られる方向へと導いてくださる。」 
 
 一言、お祈りいたします。ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今日は、私たち、一人一人は、自分の石膏の壺をもつことを教わりました。私の石膏の壺には、高価なものは、入っていないことでしょう。値打ちの見えないようなささやかなものしか入っていないと思われます。しかし、神さまは、そんな私の壺の中のものをも、何とか意味づけして、神さまのために、用いてくださるに違いありません。今日出てきた女の人のように、自分の壺を割り、殻を割り、心からへりくだって、神さまのために自分を捧げることができるものにさせてください。この祈りを、イエスさまのお名前を通してみ前におささげします。アーメン。