主イエス終わりの日について教える

<聖書:マルコによる福音書 第13章 28節~36節(31節)>
いちじ<の木の教え
 「いらじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言ってお<。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たらも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは分からないからである。それは、らようど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴<ころか、明け方か、あまたがたは分からないからである。主人が突然帰って来てあなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

<話>
 イエスさまは、弟子たらに「この世の終わりには、どんなことが起こるのか」をお話になりました。「わたしこそが救い主だ」と騒ぐ人が現れて、多くの人が何が正しいのかわからなくなります。国と国とが戦争をしたり、地震が起こったり、食べ物がなくなったりします。
 そんな話を聞いていると、弟子たらは、不安になりました。「将来は、どうなってしまうのだろう。みんな死んでしまうのか?」と、心が真っ暗になってしまったのです。
 イエスさまは、弟子たちが不安になり、うつむいてしまっている様子をご覧になって、「ほら、いちじ<の木を見てごらん」と声をかけられました。
「いちじくの木」をみなさんは見たことがありますか?
 イエスさまが暮らしていた地域では、ほとんどの木は一年中、緑の葉っぱを付けた木ばかりでした。でも、「いらじ<の木」は、寒<なって冬になると、葉っぱが全部落ちてしまいます。枯れてしまって、死んでしまったように見えます。でも、春になって、時が来ると、死んだようになってしまった木の枝から芽が出て<るのです。死んでいるようにみえて死んでいないのです。
イエスさまは、「すべてが終わってしまうという不安に押しつぶされそうになった時はいらじくの木を見つめなさい」と言われました。それは、「死んでも生きる力」に心を向けなさいということです。「いちじくの木」ですら、そんな力を持っているのですから、神さまの力は、もっと大きいのです。わたしたちが、「もうだめだ!」とあきらめても、どんなに暗い心になっても、神さまの力は負けないのです。
 わたしたちは、目にみえるものがずっと続<と思っています。今、見ている景色も、人のいのちも、ずっと続くと思っています。でも、必ず終わりがやってきます。わたしたちは、すべてが終わってしまうと思うと不安になります。先が見えないからです。でも、イエスさまは、いちじくの木を指さしながら、「終わりの向こうには、必ず新しい始まりがあるよ」と約束してくださるのです。見えるものは消えてしまいますが、このイエスさまの約束は決して消えません。この約束こそが、わたしたらの救いなのです。
 すべてがなくなって終わってしまうということは決してありません。わたしたちには分からなけれど、その先に神さまだけが知っている新しい喜びの時が必ずあるのです。教会は、日曜日ごとに礼拝をささげながら、その時を待ら望んでいるのです。この今の、先の見えない時代こそ、不安でいっぱいになって終わるのではなく、その先に、神さまだけが知っている新しい喜びの世界が待っていることを信じて、共に祈りを合わせて生きていきたい思います。