貧しいやもめ、献金する

 イエスさまは、この時、十字架にかかられた場所エルサレムにおられました。神殿は、神さまの住まれる場所であり、たくさんの人が神さまに会うためにやってきていました。「ありがとうございました。」「すみませんでした。」「お願いします。」とそれぞれの思いをもって、人々は集まってきていたのです。その時に、ある決まりがありました。決まりというのは、大切なものを持ってきて、捧げものとして神さまにお供えをするということでした。人々は、聖書の教えに従って山羊や羊、山鳩などを供え物として神さまに捧げました。神さまは、決して肉や穀物が好きで捧げものをいただいていたわけではありません。捧げものとして大切にしている者を捧げることで、みんなの心がよくなることを望んでいらっしゃるのでした。

 ところが、悲しいことが起こりました。それは、神殿で働いている人たちが、捧げものを見張るようになり、それに口を出すようになってきたことでした。もっとたくさん捧げなさい。もっと高価なものを捧げなさい。そんなことを言う人が現れ始めたのです。そこに、一人の貧しい婦人がやってきました。その人は、夫を亡くした人でした。その女の人は、自分の持っている最後のお金をここで神さまに捧げました。二つのコインで、今の日本のお金で言うと100円くらいのお金でした。イエスさまは、この女の人が、一番たくさんの捧げものをしたと言われました。自分の持っている者の中から、どれだけ捧げることができたのか、神さまはそれを見ておられると言われます。

 ところで、聖書の注解書には、こんなことも書かれています。イエスさまは、ここでは悲しまれている。もっとたくさんの捧げものをしないといけないと言われ、この女の人は、最後のお金まで捧げてしまった。そのことをイエスさまは悲しまれているというのです。

 イエスさまは、のちに、神さまに捧げものをされます。それは、自分自身を捧げものとされ、十字架にかかられて、命を落とされたのです。しかし、このイエスさまの捧げものによって、お金のない人も神さまに赦してもらえるようになりました。心からごめんなさいと言えば、お金がなくても赦していただけるのです。心からありがとうございましたと言えば、お金がなくても、その感謝の気持ちを受け取っていただけるのです。イエスさまが命をかけて、私たちの代わりにすべての捧げものをしてくださったからなのです。

 では、今、私たちが教会で献金をしているのはどうしてなのでしょう。それは、そこまでしてくださったイエスさまにありがとうございましたという気もちを表すため。それが献金なのですね。