エルサレムには昔、大変大きな神殿がありました。その神殿に世界中から沢山の人々が訪れて礼拝を捧げておりました。イエスさまも弟子達と共にエルサレムに来られたのです。そして神殿の境内にお入りになられました。すると突然、イエスさまは境内で売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたというのです。また神殿の境内を通って物を運ぶこともお許しになられなかったと今日の聖書に書いてあります。この境内というのは実は、「異邦人の庭」と呼ばれる場所で、ユダヤ人以外の外国人たちはこの境内でまで進むことが許されていたのです。そしてここで神さまに礼拝を捧げていたのです。その礼拝のために人々は、献金用の特別なコインに両替したり、神さまに捧げる鳩を買わなければなりませんでした。そういう外国人たちを相手にユダヤ人たちは境内で色々な商売をしていたのです。その様子をイエスさまはご覧になられたのです。そして大変にお怒りになられたというのです。激怒するという言葉があります。イエスさまは激しく怒り、それで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る人々の腰掛けをひっくり返し、商売のための色々な物を運ぶこともお許しになられなかったというのです。イエスさまが、こんなに激しくお怒りになられたことは、おそらくこれまでなかったのではないか、それくらいお怒りになられたのです。何故イエスさまはお怒りになられたのでしょうか。そのわけをイエスさまは聖書を用いてこうお教えになられました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』。ところがあなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。「わたしの家」というのは、神殿のことですが、イエスさまは神さまに代わって神殿は神さまの家であると言われるのです。そして神殿は全ての国々の人々が集い、そして神さまに祈り、讃美をして礼拝を捧げる大切な場所であるのに、それをあなたがたは忘れて、神さまの家を自分の物であるかのように思って商売の場所にしている。それは自分の家ではないのに勝手に入り込んで自分のものにしてしまう強盗と一緒ではないか、そう訴えておられるのです。あなたがたはみんなこの神殿が神さまの生きておられる家であることを忘れておる。この場所が神さまに礼拝を捧げなければならない大切な所であることを忘れている。そのことをイエスさまは激しく怒っておられたのです。
神殿の一番奥には、大祭司と呼ばれる神殿に仕える人が1年に1度だけ入ることが出来る特別な部屋がありました。他は誰も入ることが出来ません。なぜなら、その部屋に、天の父なる神さまが生きておられると信じられていたからです。そういう意味において神殿というのは大変特別な場所であり最も大事な所でありました。
でもこの大きく立派な神殿は人間が造ったものです。どんなにそれが立派な神殿であっても人が作り上げた建物に神さまはお住まいになられません。神さまはこの世界を創造し、私たち人間を造り、命を与えて生かして下さる全能なる方です。神さまは世界を支配するお方として天におられるのです。しかし、神さまはご自分の方から天を降り、私たちが生きているこの地上に来て下さったのです。それは私たちのすぐ近くにお出でになられ、私たちを探して罪を許して救われるためであったのです。私たちが皆、神さまから命を与えられ生かされていることを知って、神さまがいつでも一緒に怒られることに感謝して喜んで生きるためです。そして本当に神さまは私たちと一緒に生きて下さるために、私たちの所に来て下さいました。それがイエスさまです。
神さまから離れ、神さまに生かされていることを忘れ、神さまに心からの礼拝を捧げることの出来なかった私たち罪人を神さまはご自分の方から捜し求め、遂に人間のお姿にまでなられてこの地上に来て下さったのです。そして私たちの身代わりとなられてあの十字架について死んで下さったのです。私たちはイエスさまの十字架によって罪が許されて神さまとの交わりが回復したのです。実際に神殿の一番奥の部屋の前には分厚い大きな幕がかけられていて神さまのそばに近づくことは出来ませんでした。でもイエスさまの十字架によってこの大きな幕が上から下まで真っ二つに裂かれたのです。そして私たちは神さまの前に進み出て礼拝を捧げることが許されたのです。
今朝は、松山城東教会の創立記念日です。礼拝堂の真ん中に聖餐卓が置かれていますが、この聖餐卓に十字架の死から甦られたイエスさまが今日も生きておられるのです。私たちはイエスさまを通して、いつでもどのようなときも神さまを知り、神さまに祈り、神さまに讃美を捧げて礼拝することが出来ます。そして神さまが私たち一人一人のことをどんなに大切にお考えになり、私たちを愛し、いつも一緒にいて助け導いて下さることを約束しておられるか、そのことをイエスさまは私たちに教えて下さっておられるのです。教会はイエス・キリストの体です。この教会にイエスさまは生きておられるのです。神さまはこのように教会をお与えになられて私たちを招いて、礼拝を捧げることを何よりもお喜びになられるのです。これからも喜びと感謝をもって神さまに礼拝を捧げて生きたいと思います。