ルカによる福音書によると、マリアは、天使ガブリエルから、「おめでとう、恵まれたお方。」と言われました。そして、喜びなさいと告げられたのですが、マリアは、その時、ヨセフとの婚約を済ませていました。それなのに、マリアは、「男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と言われるのです。マリアが、「どうしてそのようなことがありえましょう。わたしは、男の人を知りませんのに。」と答えると、ガブリエルからは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、産まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれる。」という返事が返ってきたのでした。
マリアは、その時、喜びなさいと言われましたが、喜ぶことはできなかったのではないでしょうか。これから結婚しようとしている人が、誰かの子を身ごもっているとしたら、それはとても悲しいことで、結婚は取りやめになるでしょう。なぜ愛している夫の子どもではなく、神さまの子どもを私が生むのだろう。マリアは、そういう思いであったに違いありません。マリアは、この時点では、まだ喜ぶことはできなかったはずです。
聖書には、喜ぶ場面がいくつか出てきます。ルカによる福音書では、15章に、見失った羊のたとえ話が出てきます。百ぴきの羊を飼っている人が、見失った一匹の羊を探します。そして見つけたら、その羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」という話です。神さまは、悔い改める一人の人のことをとても喜んでくださいます。
私たちには、だれにも、うまくできないことがあります。なぜ自分にはそれができないのだろうと思うことが誰にでもあると思うのです。なぜ、どうしてこんな自分なんだろうと途方に暮れることがあるのです。でも、そんな自分が、悔い改めて、神さまのもとに帰った時、神さまはとても喜んでくださいます。
マリアも、始めは、どうしてこんなことになるのだろうと思いました。でも、「お言葉通り、この身に成りますように。」と悔い改め、神さまのもとに返ることができました。その後、マリアから産まれたイエスさまは、全ての人の喜びとなり、全ての人の救い主となりました。
わたしたちが、神さまのところに戻る時、神さまは喜んでくださいます。そして、それは、深く大きな喜びへとつながっていくのです。