イエス・キリストの系図

1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
6エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 NHKのファミリーヒストリーという番組をご存知ですか?
 有名人が、自分の先祖・ルーツを知るという内容です。つまり昔、こんな商売をしていたとか、お侍さんだったとか。地元のお偉いさんだったとか。自分のお父さんやおじいさん、もしかしたら、ひいじいさんまでは会ったことがあっても、それ以上にさかのぼって会うことはめったにないですよね。それを知ることができるって、ちょっとワクワクします。
 さて、昨日の深夜、おなじNHKで第2次世界大戦後に、日本人のお母さんとアメリカ兵の間に生まれた(当時)混血児と呼ばれていた捨て子ばかりを集めた孤児院出身のおじいさんたちの番組を観ていました。自分たちが何故孤児となったのか、おじいさんたちはつい最近まで知りませんでした。ある人が、孤児院で隠されていた台帳を見つけて、それを手がかりに、お母さんやきょうだいとは会えなかったけれど関係のある人と出会い、血のつながった人が自分にもいるということに感動したりホッとした気持ちになったりといった場面がありました。自分のルーツを知ることは、生きていくうえでの安心感につながるんだなぁ。と改めて考えさせられました。
 
 さて、今日の聖書の箇所、イエス・キリストの系図、みなさんどう思われましたか。ファミリーヒストリーでは、現在の有名人にいたる系図がでてきます。聖書を読み始めたころ、新約聖書の1ページ目は、なんだかカタカナの名前の羅列・・アブラハム、イサク、ヤコブ・・とばしてとばして・・ダビデ王にソロモン・・あたりは知っているけどその他の名前はピンとこなかったりしました。でも、その名前、旧約聖書を読むとでてきます。42人、旧約聖書から見つけてくださいね。

 ところで、イエス・キリストの系図に、女性が5人登場します。お分かりになりますか?絶対にわかるのは、最後のマリア。イエスさまのお母さんですね。旧約聖書には、ルツ記がありますが、そのルツも女性です。その他に、タマル、ラハブ、ウリアの妻。合わせてこの5人です。この5人の女性は、何というかそれぞれに複雑な・・・事情を抱えています。女性として生きるには、この時代かなりハードな社会的扱いを受ける立場にある人たちでした。


 この聖書の箇所、もう一つ不思議な書き方をしていることに気づきませんか。ダビデ王の息子であるソロモン王の母親をわざわざ登場させて、しかも「バト・シェバ」という名前があるのに「ウリヤの妻」という言い方をするのはどうしてでしょう。それに、イエスさまのお誕生を物語る前に出てくるこの系図は、私たちに何を伝えようとしているのでしょう。

 この系図を提示することによって、イエスさまはイスラエルの偉大なダビデ王に由来する立派な生まれであることを言いたい・・・訳ではありません。(サムエル記下11章)「ウリヤの妻」という名前の意味するところには、ここに女性を登場させることで、ダビデ王がウリヤという部下の妻を横取りしたばかりではなく、忠実な部下であったウリヤを絶対生きて帰ることのない戦地に送って死に追いやるという取り返しのつかない罪を犯した罪人であるところに焦点をあてているのです。


 聖書を通読すればわかりますが、われわれ人類の歴史は、美しい物語ばかりではなく、悲しくも、アダムとエバの罪の遺伝子に悩まされ続けた哀れな結果であるとも言えます。罪を犯さずには生きて来られなかったもののうちにも、神様のご愛の証として約束どおり、汚れなきイエスさまが救い主としてお生まれになったのです。この罪にまみれた真っ暗闇の中に差し込む明るい光、イエスさまの救いでわたしたちの足元は照らされています。わたしたちのルーツは、イエスさまの十字架による贖い。罪の許しの中にあります。

 今日からアドベントです。聖書を読んでください。いつか、その理由がよくわかるようになるはずです。