イエスさまがエリコと呼ばれる町にお弟子さんたちとお出でになられ、しばらくそこに滞在しておられました。その間、大勢の人々がイエスさまのお話を聞いて、慰められ力を与えられて励まされたのです。それで、もっとイエスさまからお話を聞きたいと願う人々がこのエリコの町に大勢いたのです。ところがイエスさまがいよいよ出発することになったので、大勢の群衆がイエスさまの後について行ったのです。エリコの町は城壁と言って高い壁に囲まれておりました。その城壁の入り口に向かってイエスさまは歩いておられました。その道端にある人が座って物乞いをしていました。この人はパルティマイという名前で目が全く見えなかったのです。それで毎日毎日道端に座っては通り過ぎる人に食べ物やお金を恵んで貰って生活していたのです。そのパルティマイが、今自分が座っている前をイエスさまが通り過ぎようとしておられるのを知ったのです。パルティマイは目が見えませんでしたが、耳はよく聞こえたのです。大勢の人々がイエスさまの名前を叫んで従って行くその声をパルティマイも聞いたのです。それでパルティマもこう叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。パルティマイは叫び続けました。それでイエスさまの側にいた多くの人々がパルティマイを叱りつけたのです。でもパルティマイは諦めませんでした。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」そう叫び続けました。
パルティマイは目が見えませんでしたから、イエスさまがどこにおられるか分かりませんでした。もしかするとパルティマイは、自分の目が見えないことを悩み苦しみ、悲しんでいたかも知れません。ですから自分ほ神さまからも忘れられた、見捨てられた人間であると思っていたのではないかと思います。神さまのお姿も見えなかったのですね。私はこのパルティマイのことを考えていて、これは私たちのことではないかと思ったのですね。私たちの目は見えますが、でもパルティマイのようにイエスさまのお姿も神さまのお姿は見えません。だから、自分はひとりぼっちではないか。一人でどうやって生きていこうか、心配したり不安になったりすることがあると思う。でもイエスさまはそういう私たちのすぐ近くに来られたのです。
パルティマイは、イエスさまの名前を叫ぶ人々の声で、自分の近くにイエスさまがおられることを知りました。私たちは何によってイエスさまがおられることを知ることが出来るでしょうか。それは十字架です。イエスさまは神さまの独り子でしたが、神さまの元を離れて、私たちの所に来て下さいました。しかも私たちと同じ人間の姿をとって来て下さいました。そのイエスさまが私たちの身代わりとなってあの十字架におかかりになって、私たちの罪を赦して下さったのです。罪というのは神さまが共におられることを信じないことです。でもその罪がイエスさまの十字架によって無くなったのです。神さまは大切なイエスさまを十字架につけることによって、私たちに愛を表して下さいました。神さまがいつでもどのようなときも私たちと一緒におられる。その神さまの約束、私たちをどんなに愛して下さっておられるか、それはイエスさまの十字架を見上げることによって知ることが出来ます。
パルティマイは、神さまのことを見失っていました。神さまが共におられることが見えなくなっていました。だから希望が無かったのです。苦しみと悲しみしかありませんでした。でもそういう自分の側に神さまが御自分の方から近づいて来て下さった。イエスさまが本当に来て下さったことを知って、パルティマイは、神さま、どうか私を憐れんで下さい。助けて下さい。救って下さいと叫ぶことが出来たのです。そのパルティマイの心の目が開かれてイエスさまをはっきりと見ることが出来るようになりました。そしてイエスさまをお送り下さった神さまを信じる信仰が与えられたのです。
神さまはイエスさまを私たちにお与えになられました。そしてそのイエスさまを十字架につけることによって私たちに愛を表されました。神さまは私たちをいつでも愛しておられるのです。その愛を信じて生きる。これが信仰です。「あなたの信仰があなたを救った」とイエスさまはパルティマイに言いました。パルティマイは信仰を与えられ、信仰によって心の目が開かれて、いつでも神さまを見上げて喜んで生きる人間に変えられたのです。
十字架の上で死なれたイエスさまは三日目に延られました。イエスさまは私たちの目には見えませんが、今も私たちのすぐ近くにおられます。生きて働いて下さり、私たちを慰め、励まして神さまを信じて生きる命をお与えになられているのです。私たちもパルティマイのように、イエスさまが近くにおられることを信じて呼び続けて歩みたいと思います。必ずイエスさまは答えて下さるはずです。