主イエスが3度目の自分の死と復活を予告された後、ヤコブとヨハネはイエスさまのところにやってきました。そして、「お願いすることを叶えて頂きたい」と、胸を張って堂々と自信を持って厚かましくお願いをしました。二人は、主イエスに謙遜と信頼をもって-生懸命お仕えしてきました。その故に自分はイエス様に近い存在としての自負があったのです。二人は「栄光をお受けになるとき、二人のうち一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」そのようにお願いをしたのでした。実は、この二人は、「十字架の死と復活の救いの業」を間違って理解していたのです。即ち、イエスさまはいよいよイスラエルの王国を再建されて王座に就かれる。栄光をお受けになるときが来たのだと思ったのでした。
その二人の願いに対して、イエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいました。主イエスの3度の予告は、罪人である人間を救う為の十字架の購いの死と復活についてのことでした。主イエスの進まれる道は、自分を犠牲(贖いの生贄)として、人間の罪の裁きを受けられる道なのでした。罪なき神の子が、罪人の一人として神の裁きを受け、そして復活される。ということだったのです。
その後、イエスさまは二人に「この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバブテスマを受けることができるか」と問われました。二人は、主イエスの言葉を正しく理解出来ないままに、「出来ます」と答えました。ここでも、ヤコブとヨハネの二人は、主イエスがこの世の戦いに勝利して、あのダビデが築いたようなイスラエルの民の王国を再建して、栄光の王座に就かれるためならば、主イエスと一緒に苦難を背負いますと、答えたのでした。確かに力強い覚悟ではありますが、人間的、この世的な報いを期待したものでしかなかったのです。
力強く返事をした弟子たちでありましたが、弟子達は誰一人、主イエスの受難の道を歩むことは出来ませんでした。あのゴルゴダの丘の十字架上で贖いの犠牲の時、全員逃げ去ってしまったのです。主イエスは、弟子たちの弱さ、不信仰を知りながらも、やがて弟子たちが信仰ある者へと変えられるために、「確かにあなたがたは私が飲む杯を飲み、わたしが受けるバブテスマを受けることになる」とおっしゃいました。そして、後に、復活の主に出会った弟子たちは、教会のために生きる戦いに臨み、キリストの福音を証しする使命と復活の命に生かされる者とされたのです。
ところで、イエスさまは、今日の聖書の箇所の中で、主に従う生き方の本質を語られています。それは、真実の支配とは「人に仕えることである」と言われていることです。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は全ての人の僕になりなさい」これがイエスさまの言葉です。しかし、そえは、人々に仕えることで偉くなり、人の上に立って支配できるということではありません。主イエスを中心とした生活を創りなさい。つまり、主イエスに従う生活をしなさいということを求めておられるのです。ヨハネ13章7節では、最後の晩餐の時、主イエスが、12人の弟子たちの足を洗われたことを記されています。ペテロは畏まって、「私の足を洗うのをお止めください」と言いましたが、主イエスは言われました。「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で分かるようになる」「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあいなさい」そのように教え、主に従う生活とはどういうものであるか、ここでも弟子たちに教えられたのです。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、自分の命を奉げる為に来たのです。主イエスは十字架の究極の苦しみを背負って、死を受けられました。神さまは、人間が罪ゆえの裁きを受けることを免れるために、独り子のイエス・キリストを生贄とされて、人間を罪を赦してくださいました。これは、神さまの愛なのです。だから、あなたがたも愛をもって人々に仕えなさい。愛をもって奉仕しなさい。神さまの救いを信じるあなたがたなら、それが出来るのです。とおっしゃっておられるのです。