一人のお父さんが、息子を連れて来ました。その息子は、悪い霊に取りつかれると、物を言えず、口から泡を吹きだし、転げまわるのです。そこで、お父さんは、お弟子さんたちにお願いして、癒してもらおうとしましたが、お弟子さんたちには、それができませんでした。そこで、今度は、イエスさまのところにお願いに来たのです。お父さんは、イエスさまに言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」そのようにお願いしたのです。イエスさまは、お答えになられました。「できれば、というか。信じる者には何でもできる。」すると、お父さんは、すぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」
イエスさまが、霊をお叱りになると、霊は声を上げ、その子をひどくひきつけさせて、出ていきました。動かなくなったその子は死んだのかと思われましたが、イエスさまが手を取って起こされると、立ち上がることができたのです。
ところで、お弟子さんたちは、どうして、その時、霊を追い出すことができなかったのでしょうか。イエスさまは、答えられました。「この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできないのだ。」そのように答えられたのです。この出来事は、神さまの力を信じて祈ることの大切さを教えてくれます。自分の力を頼るのではなく、イエスさまが助けてくださると信じて、絶対の信頼を置くことが大切なのです。
わたしたちも、教会の在り方やそこに集うたくさんの人々とのかかわりの中で、自分の期待する通りにならず、落胆してしまうことがあります。しかし、そんな時こそ、イエスさまご自身にお願いしなければなりません。わたしたちが祈る時、イエスさまは、決して見捨てられることはありません。わたしたちには、一人一人神さまから与えられた賜物があります。しかし、その賜物は、自分自身のためだけに使おうとするとき、力が失われます。賜物をくださったイエスさまに祈ることによって、わたしたちは本当の意味で神さまから用いられ、その賜物を生かすことができるのです。賜物は、神さまの栄光を表すために捧げる時に、大きな力となるのです。
わたしたちの生きている天の下での出来事は、すべて神さまが時期に適うように計画され、造られています。神さまの技をわたしたちは、始めから終わりまで見切ることはできないのです。誕生もその死も自分の力ではどうすることもできません。全ては神さまの計画の中にあるのです。わたしたちの人生の中には思い通りにならないことが多く、落胆させられることも多々あります。しかし、イエスさまがいつも側にいてくださっていることを信じることで、わたしたちは、安心してその命を生きていくことができるのではないでしょうか。
「讃美歌21」 575番 「球根の中には」
いのちの終わりは いのちの始め。
おそれは信仰に、死は復活に、
ついに変えられる 永遠の朝。
その日、その時をただ神が知る。