マルコによる福音書8章36節に「人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」というイエスさまの言葉が紹介されています。自分の命というは、あなたの命、一人一人の命のことで、その命には、「○○さんの命」という名前が付いています。そして、その人の命は、一つしかなく、取り戻すことはできません。
わたしたちは、自分の命を生きている間、大事にしようとします。聖書には、また次のように書かれています。「わたしのあとに従いたいものは、自分の十字架を背負って従いなさい。」この世で私たちが死ぬとき、その先も天国までイエスさまは連れて行ってくださること、この世だけでは終わらない命、天国まで続く命のことをイエスさまは、話してくださっています。イエスさまは、わたしたちを、必ず、天国まで導いてくださいます。安心していいのですが、ついていくその道では、「十字架を背負って従いなさい」と言われます。この十字架を背負うってどういうことなのでしょう。
十字架というのは、自分の使命。自分の使命を背負って生きていきなさいとここでは言われているのです。では、「使命」ってなんでしょう。ここでいう使命とは、自分で選ぶものではなく、上の人から与えられて果たすものです。イエスさまは、人間を罪から救うために、十字架にかかるという使命を果たされました。わたしたちも使命を神さまから与えられ、それを果たしていくのです。しかし、十字架は重いもの。多くの苦しみを受けます。
わたしたちは、生きている間に苦しむのは嫌ですね。しかし、わたしたちが生きている間には、本当に苦しむ場面もあるはずです。そうとう苦しい場面に出くわすこともあるのです。神さまから与えられた「使命」に引っ付いてくる苦しみ。苦しさ。これは、奥の深いものです。しかし、この苦しみは、意味のあるものなのです。
人間には、表面に出てきて周りの人に伝わりやすい一面とその裏に隠れていて周りの人には理解しにくい別の一面があります。キリスト者が死を前にして「もうすぐ神さまのところに行ける。うれしい。」と思う心の裏側には、死を受け入れたくない心がやはりあるのです。人間には、深さがあり、抱えている苦しみにも、奥があると言えるでしょう。しかし、この苦しみは、自分が歩んでいくためには、必要な苦しみです。自分の使命を果たす上で、苦しみには意味があるのです。だから、その苦しみを受け入れ、一生懸命に生きていけばいいのですよということをイエスさまは、教えてくださっているようです。