CS礼拝「四千人にパンを与える」

 今日は、イエスさまが四千人の群衆にパンを与えたお話です。三日間飲み食いせずにイエスさまに従ってきた群衆を思いやってイエスさまが言われました。「かわいそうだ。空腹のまま帰らせると、帰る途中で疲れ切ってしまうだろう。」弟子たちは、あきれ顔で、腹立ちまぎれに言ったはずです。「こんな人里離れたところで、いったいどこからパンを手に入れて、これほどの人に食べさせることができるでしょうか。」イエスさまは、言われました。「パンはいくつあるか。」と問われ、弟子たちが「七つあります。」と答えると、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちに配らせました。すると、人々はそれを食べて満腹となり、残ったパンのくずを集めると七籠になったということです。

 大変にびっくりする奇蹟であり、ありえないことのように思うかもしれません。でも、今日は、視点を変えてイエスさまが与えようとしたパンはどういう食べ物であったのかということを考えてみましょう。

 実は、このパンは、特別なパンであったことを、聖書は教えています。ヨハネによる福音書には、イエスさまは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われています。そして、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない。」と教えられました。イエスさまは、わたしたちに命のパンを与えると約束してくださったのです。わたしたちは、イエスキリストという命をパンをいただいています。自分たちのところにお迎えしているのです。すると、イエスキリストは、わたしたちをいつまでも生かしてくださり、永遠の命の道へ導いてくださるのです。

 水野源三さんと言う人がいます。この人は、9歳の時に赤痢にかかり、高熱が続きました。熱は引きましたが、手足の自由がきかなくなり、しゃべることもできなくなったそうです。しかし、瞬きで言葉を伝え、たくさんの詩を残した人です。教会に通うことはありませんでしたが、水野さんのことを知った牧師が水野さんを訪ね、天の父なる神さまのことを教えられました。水野さんは、47歳で生涯を閉じられましたが、次のような詩を残されています。

「生きる   水野源三
神さまの大きな御手の中で
かたつむりはかたつむりらしく歩み
蛍草は蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き
神さまの大きな御手の中で
私は私らしく生きる」