主イエスにつまずかない人は幸いである

マタイにまる福音書11章2~15節
 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立って登場し悔い改めの印として洗礼を授ける働きをしました。主イエスもヨハネから洗礼を受けられました。すべての預言者と律法が予言したのは、ヨハネの時までです。ヨハネは、へロデの罪を断罪し、捕らえられて牢に繋がれました。ルカ3章1~20にヨハネの働きと牢へのいきさつが記されています。
 ヨハネは、主イエスの御業を「キリスト=メシヤ=救い主」の業であり、罪人を裁き、正しい人に報いて下さる」即ち、主イエスがヘロデの権力を打ち倒して、正義の力が統治する輝かしい世界が到来すると信じて、私は牢から解放されると期待し、待っていました。  

 しかし、ヨハネは、理想のキリスト像と現実の主イエスの御業の違いに、不安になりました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」と弟子を通して、イエスに尋ねさせたのです。それは、「あなたが私を救ってくださると期待してよいのでしょうか。それとも、あなたは私の救い主ではないのですか?」という意味で、それに対して、主イエスは、「わたしにつまずかない者は幸いである」と答えられました。
 ここで出てくる「つまずく」というのは、腹を立てる。進行が揺らぎぐらつく。神さまが見えなくなるということです。自ら自身がつまずいてしまい、「なんでこうなったのか」と自分以外のところに原因を探そうとすることなのです。
 この時、ヨハネは、主イエス・キリストへの信仰が揺らいでいました。だから、「来るべき方は、あなたでしょうか」「あなたは私の救い主ではないのですか?」と主イエスに尋ねたのでした。主イエスは真の救い主であるのか、神であるのか。と疑い迷ってしまったのです。つまり、主イエスにつまずいたと言えるでしょう。

 主イエスにつまずいた人は他にも多くいます。
 12弟子の一人であるペテロは、主イエスが捕らえられた時、3度も主イエスを知らないと言いました。「自分の身に危険を感じて、「この方をわたしは知らない」、「私とかかわりがない」と言ってしまったのです。主イエス・キリストヘの信仰が揺らぎ、救い主を見失った。つまり、主イエスにつまづいたと言えるでしょう。
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 同じく弟子のユダは、主イエスを裏切りました。主イエスが、ローマの支配と権力を打ち倒して、世界の王となり、イエス・キリストの正義とカが統治する輝かしい世が実現すると信じて、ユダはイエスに従ってきました。ですが、イエスは弱いただの人、十字架に架けられる敗北者となってしまいました。即ち、「イエスは私の救い主ではない」と、主イエス・キリストへの信仰を全く失ってしまったのです。ユダは、主イエス・キリストへの信仰を捨てて、この弱い人を世の権力者にわずかな金銭を受け取り、売り渡してしまったのです。ユダもやはり主イエスにつまずいたと言えるでしょう。

 そして、弟子たち全員が、主イエスが十字架にかけられた時、その十字架から逃げ去りました。救い主を見失い、十字架上の主キリストを捨てて逃げ去ってしまったのです。つまり、全員の弟子たちは、イエスにつまずいてしまったのです。

 また、主イエスからつまずかされた人もいます。
 キリスト教の大伝道者であるパウロ(サウロ)は、ダマスコに向かう途中の道で、復活の主キリストからつまずかされ、引き倒されました。それまでは、パウロは、キリスト者を迫害する者であったのですが、そこから全く逆転して、復活の主の真実と、主イエス・キリストの十字架の救いの御業を証言する大伝道者に変えられたのです。復活の主キリストがサウロをつまずかせ、パウロの使命と目的を福音伝道に生きることへと逆転されたのです。
 
 そして最後に、頻繁に毎日のようにつまずいているのはだれでしょう。それは、私たちです。主イエスが救い主と信じる信仰者でありながら、自分に起こる苦難や難難、重い試練にあうと、「何でこうなったのか」「こうしたのは誰か」と問い、呟いてしまいます。一生懸命祈っても何も変わらない。重ねて願い求めることが何一つ叶えられない。そんな時、イエス様を信じても何もいいことがない、与えられない、豊かにならないじやないかとつぶやき、信仰が揺らぎます。そして「あなたは私の救い主ではないのですか?」とつぶやくのです。そんな時、私たちも、同じように神を見失っているのです。

「わたしにつまずかないものは幸いである」と主イエスは、言われます。何も変わっていないのではなく、新しいことが起こっていると言われます。おどろくべき福音です。救い主イエス・キリストが、この世に来られたのです。神さまの救いの業、解放の業が始まっています。弱い人、病める人、悩める人を癒し、慰めて多くの奇跡を起こし、解放し、共に歩まれている。共に悲しんでおられます。自らの人生を十字架の死に至るまで歩まれ、人間の罪を救われ、赦される業を成し遂げられました。
 それは、神を見失っている人々が、悔い改めて、神さまを仰ぎ、神さまの前に立ち、救い主キリストの十字架の救いの御業を信じる信仰を告白するためです。神さまから離れて、遠ざかっている全ての罪人が神さまのもとに立ち帰るためなのです。救い主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の御業を通して、主イエス・キリストは、私たちに呼び掛けられているのです。「信じない者では無く、信じる者になりなさい」と。何度も繰り返しつまずく私たちを主キリストは待ち続けて下さっているのです。