家と土台

CSマタイ7:24~29
 今朝の聖書は、イエスさまがお話しになられた誓え話です。「岩の上に家を建てた」人と「砂の上に家を建てた人がおりました。しばらくすると雨が降り出しました。一向に雨はやみません。やむどころか益々雨は激しくなり、遂に川の水が氾濫し激しい風が吹き始め嵐となりました。そして家を襲いました。でも岩の上に立てた人の家ほ倒れませんでした。岩を土台にしていたからです。一方砂の上に立てられた家はどうであったかというと聖書にはこう書いてあります。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」というのです。岩を土台として家を建てるか、それとも砂の上に家を建てるか、それによって雨が降り、川が溢れ、強い風が吹いたときに、家が倒れないか、それともひどい倒れ方をしてしまうか決まるというのです。家を建てる時には、何を土台にするか、それがとても大事なのですね。
 そしてイエスさまは、こう話されたのです。もう一度24節を読んでみます。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。家を建てるには土台が必要です。同じように私たちが生きていく、人生を歩んで行くためにも土台が大切なのです。雨が降り、川が溢れ、強い風が吹いたように、私たちの生活や人生にも時に激しく降る雨や、風、そして川が溢れるような試練や苦難が起こってきます。その時に何を人生の土台に据えるか、それが大事です。岩を家の土台にした人というのは、イエスさまがお語りになられる言葉を聞いて行う賢い人だというのです。イエスさまがお語りになられる言葉というのは、聖書に書かれている神さまの言葉のことです。その神さまの言葉を聞いて行うというのは、神さまの言葉を聞いて、いつでもその言葉に信頼して歩む、生きるということです。私たちの生活・人生は嵐を避けることは出来ません。でも神さまの言葉を聞いて、それに信頼して生きる時、必ず神さまは私たちを助け、支えて下さる。明日を生きる勇気と希望と力を与えて、天の国に至る救いの道を歩ませて下さるのです。
 イエスさまほそのために、いつでも私たちに御言葉を与えておられるのです。今もそうです。イエスさまのお姿は私たちには見えませんが、でもこうして日曜日ごとにイエスさまは聖書の言葉を通して私たちに語りかけて下さっておられるのですね。私がいつもあなたと共にいる。十字架の上であなたのために死んで甦って、今も生きている。そのイエスさまの言葉を聞いて、信じて生きる、これがイエスさまの言葉を聞いて行うということです。でもそれを行わないというのは、イエスさまが甦られて今も生きておられることを信じないということです。それは岩という確かな土台の上ではなくて、砂の上に家を建てた愚かな人であるというのです。
 私たちがそれぞれに生きている命、毎日の生活、そして人生は神さまがお造りになり、与え、生かしておられるのです。神さまこそ、私たちを本当に支える土台、岩です。でもその岩である神さまを私たち人間は見失っていたのです。砂の上に家を建てることしか出来なかったのです。でも神さまはそういう私たちに、あなたたちを本当に支える土台は私だと言われて、私たちを支える土台になって下さいました。それがイエスさまです。イエスさまはご自分の命を私たちのためにあの十字架に捨てて死んで下さいました。そして三日目に復活されました。死の力によっても無くならないそういう確かな土台となって私たちを下から支えておられるのです。イエスさまをお与えになられたほどに私たちを愛し、赦してこれを救おうと決意された神さまがどのようなときも共におられる。そして私たちをちゃんと助け、支え導いて下さることを表しているのが、イエスさまの十字架の死と復活です。目には見えないですが、皆さんの生きている命、生活、人生の全てがイエスさまの十字架と復活によって支えられているのです。
 この恵みを、日曜日ごとに礼拝に出席して、聖書の言葉を聞いて心に覚えたいと思います。