マタイによる福音書 5章43~48節
今日のお話は、山上の垂訓といわれているイエスさまのお話のうちの一つです。先ほど司会の○○先生に読んでいただいた始めの部分を繰り返します。
「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
この「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスさまの言葉は、今までに何度も聞いたことがある言葉です。わたしは、敵とか迫害する者とかいうような言葉に思い当たるような露骨に苦しめられる人間関係は今は思い当たらないですが、苦手な人というのは、もちろんあります。また、日々思い悩まされる人間関係もあります。
そんな苦手な人や思い悩まされる人間関係を持つ人を愛する、その人のために祈るということは、自分にはできない。難しいと思ってしまい、本気で取り組めないままにずるずるとそんな関係を引きずってしまう。そんな煮え切らない失敗経験に直面させられるこのみ言葉は、自分にとっては苦手なみ言葉で、できない自分を責めてしまうという苦い味のするみ言葉です。
どうしてそんな人間関係ができてしまうのかについて、共感できる記事が、教案集の中にありましたので、引用させていただきます。静岡県の教会の牧師先生の記事です。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。仲良しのお友達と仲良く遊ぶことは楽しいです。みんな気心が知れているので気を使ったりしないで、思いっきり自分を出しても仲良く遊ぶことが出来ます。でも仲良しではない、自分を思いっきり出すことが出来ないお友達と遊ぶのは窮屈な時があります。すると次からは一緒に遊ぼうよって声を掛けなくなってしまう。最初の一回を距離で考えると一ミリかもしれないけれど、それが続くとだんだん長くなってしまって、一ミリが一キロ以上に大きくなってしまって、取り戻すことが無理な関係、距離を埋めていくことが出来ないままになってしまいます。仲が悪い訳じゃないけれど、相手のことに関心をもったり、心を開いたり向けたりすることが出来なくなってしまいます。私たちが生きている世界では残念ですが良く見かける光景です。それに慣れてしまって、自分なりの距離をキープすることを覚えていくことになってしまいます。」
こんな記事なのですが、ここで取り上げられている「気を使ったりしないで思い切り自分を出せる人間関係」と「自分を思い切り出すことができない人間関係」の違いは何なのでしょうか。相性とか、価値観の違いとか、そういうところに起因している部分が大きいのではないかと思います。そう考えると、自分が苦手とか思い悩ませられると考えている人間関係においては、相手にとっても自分は苦手な存在なのかもしれないし、思い悩ませている存在であるのかもしれません。今日の聖書のみ言葉の中に、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる。」という一節がありますが、悪人と善人の違いも正しいものと正しくないものの違いも、見方や視点を変えるとひっくり返るようなものかもしれません。それらの見方や視点、価値観のあらゆるものすべてを囲んで、愛してくださる神さまという存在は、やっぱり公平で、その愛は限りないものなのだと改めて思わされます。
ところで、イエスさまは、今日のみ言葉の最後に、次のように語られています。「だから、あながたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。」
わたしにとっては、ものすごく高いハードルを前にしているような気持ちにさせられる言葉です。ほぼ絶望的な気持ちにさせられる言葉なのです。しかし、先ほど紹介した静岡県の牧師は、その部分を次のように解釈してくださっています。
「そんな私たちだからこそ、イエスさまは思いっきり顔と心を高くあげて神さまとイエスさまの交わりを見てご覧なさい、そして安心して勇気を出してご覧なさいと励ましてくださっています。あなたも神さまとの関係の中にいるんだよって保証されています。自分一人では誰かを愛すること、誰かのことを祈ることが出来ない私たちだからこそ、イエスさまの十字架によって愛と祈りがあるからです。」
ここで、顔と心を高く上げて神さまとイエスさまの交わりを見てごらんなさいと書かれていますが、神さまとイエスさまの交わりとはどういうものか、子どもたちにも分かり易く解説してくださっていた記事が教案にありましたので、そちらも紹介させていただきます。こちらは、橋本さんという方の記事です。
砂場に、ぷんぷん丸がやってきました。近くにあるものをぷんぷん怒って蹴って歩くので、ぷんぷん丸と呼ばれています。ぷんぷん丸は、いつも、誰に対しても、ぷんぷん怒って意地悪をします。なので、誰も一緒に遊べませんでした。でも、ぷんぷん丸が、いつも怒っているのは、誰も一緒に遊んでくれないからでした。もう一人、イライラ太郎は、いつもイライラしています。「これ、ボクの」「ここも、ボクの場所!」と全部自分のものにしてしまうので、誰も一緒に遊べませんでした。でも、イライラ太郎が、いつもイライラしているのは、イライラ太郎がやってくるとみんなが逃げて行くからでした。
ぷんぷん丸は、今日もぷんぷん。イライラ太郎は、今日もイライラ。そこに、イエスさまがやってきて、「一緒に遊ぼうー」と言いました。でも、ぷんぷん丸は、いつものように、砂を蹴散らし、蹴った砂は、イエスさまの頭にかかりました。すると、後ろから、イライラ太郎が、やってきて、そこは、「ボクの場所だぞ!」ってイエスさまを叩こうとしました。イエスさまは、そっとお花を取って、椅麗に砂を払い落とし、「このお花、あげる!」とぷんぷん丸に渡し、「一緒に遊ぼう!」と言いました。
ぷんぷん丸とイライラ太郎のことを知っている他のお友だちは、「あんなことをしてたら、ボコボコにされちゃうよー。イエスさまも早く逃げなきゃ。」って心の中で思いました。
こんなお話なのですが、イエスさまという方と自分との交わりが、うまく象徴的にあらわされていると感心しました。始めは、自分を、他のお友達の中においてみていたように思います。イエスさまは、えらいな。でも、ほんとに周りの他の友達が心配しているようにぼこぼこにされてしまうんじゃないか。イエスさまの愛のある行動の結末は書かれていませんが、きっと愛のある行動は実らずに、お花をへし折られてしまったのではないかとか、一緒に遊ぶことも拒否されたのではないかとか、想像していたのです。でも、しばらく考えているうちに、ぷんぷん丸とイライラ太郎というのは、自分のことではないかと思い当たりました。
そういえば、近頃の自分は、イライラしたり、ぷんぷん怒ったりしていることが多いことに思い当たります。イライラしている場面の一つに、今年受け持っているある男の子との関りの場面があります。いつも時間が来ても登校してきてくれない子どもです。電話をしてもつながらず、9時も過ぎてやっとつながり、家の人がこれから行きますと返事してくれた後も、1時間2時間、まだ姿が見えません。給食の時間になり、来るかもしれないので用意をしますが、給食の途中でひょっこりとやってきて、「食べてきたので、給食はいらない。」と言います。その後、午後になっても勉強をする気がほとんどなく、何度声を掛けても、座席に座ろうとせず、床にプリントをおいて、いやいや問題を解いたり、うろうろして周りの子の邪魔をしたりします。しかし、頭ごなしに叱りつけることができません。叱りつけると、自傷行為を始めてしまう可能性が高いからです。だから、イライラした気持ちを表面的には抑えて、粘り強く関わるしかないのですが、イライラ太郎の指数はいつも高どまりで下がることがありません。
では、イエスさまだったら、この子にどう関りを持たれるでしょうか。自省の意味で考えてみました。きっと表面的なこの子の行動の裏にあるものに着目されるのではないでしょうか。家庭の環境や保護者の考え方、そして価値観。子どもの話にしっかりと耳を傾けられ、子どもの気持ちに寄り添って、粘り強く共感的に関わっていかれることと思います。そして、どうすることがいま必要なのか、子どもと一緒に考えていかれることと思います。そして、奇跡と思われるような変化がその子に起きるのかもしれません。
でも、自分にそれができるのか、それを考えると、また、イライラや不安が募りそうになります。そんなイライラ太郎の自分には、イエスさまは、どうかかわってくださるのでしょう。きっとこんなに言われるかもしれません。
「敵というのは、他の人のことばかりを言っているのではない。自分の心の中にも敵がいる。お前の責任で、彼が今のようになっているわけではない。責任を負い過ぎようとして、心をいっぱいにするな。彼を追い詰めるな。自分を追い込むな。笑顔を一番大事にして、彼と関われることのありがたさや幸せを楽しめ。」
何だか、自分のメンタルヘルスのためのお話になってしまっているようで申し訳ないのですが、さっきの記事に戻ると、少し見えてきたものがあります。
「そんな私たちだからこそ、思いっきり顔と心を高くあげて神さまとイエスさまの交わりを見てご覧なさい、そして安心して勇気を出してご覧なさいと励ましてくださっています。あなたも神さまとの関係の中にいるんだよって保証されています。自分一人では誰かを愛すること、誰かのことを祈ることが出来ない私たちだからこそ、イエスさまの十字架によって愛と祈りがあるからです。」という記事です。
イエスさまは、私たちの罪を赦すために、十字架の上で、とりなしの祈りをしてくださいました。そんなイエスさまは、きっと自分の力だけでは、誰かを愛すること、誰かのことを祈ることができない私たちのために、一緒に祈ってくださっているのです。愛することができないと感じる人は、確かにいます。しかし、その人のことを理解しようとする、関わり続けようとするそんな力をイエスさまの祈りは与えてくださっているように思います。イエスさまに心から感謝して、顔と心を高く上げて、この週も自分に与えられた道を歩んでいきたいと思います。
最後に祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。今日は、敵を愛しなさいというみ言葉について学びました。ささいな価値観の違いなどから敵と感じる人間関係を簡単に作ってしまう愚かな自分を悔います。イエスさまから与えられている大きな愛に学び、そして、豊かな恵みに心から感謝して、神さまの子どもとしての歩んでいけますように、どうか私たち一人一人をお導きください。この一言の祈りを、イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。