説教(2025年7月月報より)

「祝福に満ちた生活を歩ませる神」

寺島謙牧師

マタイによる福音書5章31~32節 

 山上の説教は,私達の生活の具体的な事柄に及んできます。「離縁Lてはならない」というのです。しかし,31節の『妻を離縁する者は,離縁状を渡せ』という言葉は旧約聖書の申命記の24章にある言葉で,イ土スご自身の言葉ではありません。一見随分乱暴な表現となっています。しかし当時は女性に対して,ひどい仕打ちがなされていました。男性は思うがまま自由に,女性を追い出せたのです。
 モーセは,これに歯止めをかけて,このように述べたのでしょう。しかし主は,「不法な結婚でもないのに(口語訳聖書では「不品行以外の理由で」と書かれています)妻を離縁する者はだれでも,その女に姦通の罪を犯させることになる。」ときびしく諌められます。最近は,離婚事件が多い。致し方のない場合もあるでしょうが,そうでない場合も多くあります。不品行以外の理由で離婚することは,道徳に反することに止まらず,神に対して罪を犯させることになる、と言われるのです。ある牧師は,「これは神に対する罪だ。」と書われました。山上の説教の前の節でも,きびしい諌めがなされています。「もし右の手があなたをつまずかせるなら,切り取って捨ててしまいなさい。体の-部がなくなっても,全身が地獄に落ちない方がましである。」と。実際にこの通りに行うことは私達には出来ませんが,創世記の人間の創造の記述を思いだします。
 創世記2章にも「神は御自身にかたどって人を創造された」,「こういうわけで,男は父母をはなれて女と結ばれ,二人は一体となる」,と書かれています。また,主イエス御自身もファリサイ派の人々に対して,「それゆえ,人は父母を離れてその妻と結ばれ,二人は-体となる。だから,二人はもはや別々ではなく,一体である。従って神が結び合わせてくださったものを,人は離してはならない。」(マタイによる福音書19章)と語っておられます。
 この幸福も,神がお与えになった幸福です。私達にはすべて神が共に居給うこと以外に,希望はなく,幸せもないのです。主の語られた激しい言葉は,全て私達に無関係ではありません。主は常に,私達への配慮を欠かされません。私達を知り尽くされ,ついには,そのひとり子を下されたのです。このひとり子,イエス・キリストは,一旦陰府に下られました。陰府とは,神の光が全くささない所です。これは,人を罪から救い出し,励まし給うためでした。主イエス・キリストは、今日も私達を呼んで居られます。そして,結婚という私達の人生にとって,重要な事柄に光をあてて下さっているのです。