山上の説教(1)幸い

マタイによる福音書5章1~12節

 今日5月12日は母の日ですが、これはキリスト教から始まりました。115年前にアメリカの教会で、アン・ジャービスさんの追悼式が行われ、その娘さんのアンナさんが、教会をカーネーションの花で飾り、お母様の信仰について話をされました。それを聞いた人は感動し、アメリカ中の教会にその話が伝わったと言われています。日本には、宣教師が伝え、教会では、100年ほど前から母の日が守られるようになりました。お母さん、そしてお母さんを与えてくださった神さまに感謝したいですね。

 ところで、今日のみ言葉ですが、その舞台は、イエスさまが登られた山です。それは、お祈りをする場所で、聖なるところでした。弟子たちは山でイエスさまに出会い、私たちは、教会でイエスさまに出会いますね。ところで、今日の聖書箇所には、「○○な人は幸いである。」と9回繰り返されています。幸いというのは、幸せということですが、私たちはどんな時に幸せと感じるでしょう。子どもだったら、うれしい時や楽しくお友達と遊んでいるとき、学校や幼稚園で仲よく遊んでいるとき、おもちゃを買ってもらった時に幸せと感じるかもしれません。大人だったらどうでしょう。周りの人と仲良く過ごせているとき、おいしいものを食べた時、願いがかなった時など、幸せを感じるかもしれませんね。

 でも、イエスさまの言われている「幸い」は、私たちの思いとは少し違っています。「心の貧しい人は幸いである。」「悲しい人は幸いである。」とは、どういうことなのでしょう。悲しい時でも心の持ちようで、幸せを感じることができるという意味ではないようです。私たちが悲しい時、実は、イエスさまが共にいてくださっているのです。慰めてくださっているのです。だから幸いであると言えるのです。私たちが悲しんでいるとき、周りの誰も気が付いてくれないこともあります。でも、イエスさまは、わたしの悲しみを知り、一緒に悲しみ、慰めてくださいます。その恵みは決して失われることはありません。

 心の貧しい人というのは、神さまの恵みを必要としている人のことです。私たちはみんな神さまの恵みが必要なのです。知らないうちに、私たちは自分の心が乾いてしまっていることがあります。そんな時にイエスさまは私たちを祝福し、心を豊かにしてくださるのです。また、「柔和な人は幸いである。」という一節もありますね。イエスさまご自身が柔和で謙遜な方でした。謙遜な人というのは、へりくだり、神さまを信頼する人のことを言います。わたしたちのお手本が実はイエスさまなのです。イエスさまは、お父さまである神さまに従い、十字架にかかるという苦しみを越えて復活され、救いの道へ私たちに導いてくださいました。そのように聖書の言葉は、私たちに対する神さまの祝福を表しています。

 私たちの人生や生活は、うれしいことばかりではありません。苦しいことや悲しいこともあります。しかし、そんな私たちの思いを全て知ってくださり、私たちのそばにいてくださるのがイエスさまです。だから私たちはさ「幸いである。」と言えるのですよ。この一週間も感謝をして過ごしていきたいですね。