主イエス、漁師を弟子にする

 イエス・キリストは、伝道生活に入られる前に、その準備の期間を持たれました。始めにサタンによる試みにあわれました。そして、イエスさまは、サタンの誘惑に対して、完全に勝利されました。そして、今日の箇所を挟んで、その後には、有名な山上の垂訓(説教)をされたのです。その中間にあるのが、今日の箇所であり、12人の弟子の内の4人が召される決定的な箇所であります。

 4人の弟子とは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人です。私は、今回の説教にあたって、教案集の記事を読みました。その中で、目に留まったのは、奈良県にある教会の牧師先生の書かれたものでした。「イエスさまのまなざしを受けて」という表題が付けられていました。面白い記事だと思いました。そこには、こんなことがあるはずのないことが起こったということが書かれていました。4人の弟子たちは、見ず知らずの人から「ついて来なさい。」と言われ、即座に家族も仕事も捨ててついて行ったのです。普通ではありえないことです。でも、それは本当のことだったようです。同じ福音書の「マルコによる福音書」にも、全く同じことが書かれています。一体、これはなぜだったのでしょうか。

 その理由として、前述の牧師先生が書かれていたのが、イエスさまのまなざしです。普通はあり得ないことです。しかし、4人の弟子たちは、イエスさまのまなざしに信頼できる根拠を受け取ったようです。自分のことをこの方は誰よりもよくご存じである。そのように4人は受け取って、イエスさまについていったのでありました。

 「オーラを発している」という言葉があります。日本語では、「気」という言葉もあります。「怒気」「殺気」というような使い方をあしますが、言葉を発していないのにつかみ取ることができるのが「気」です。

 聖書の別の箇所から考えてみましょう。ルカによる福音書5章1節にペトロが一晩中漁をしていたのに一匹の魚も取れなかったことが書かれています。岸に戻った時、イエスさまから「もう一度網をおろしてみなさい。」と言われました。ペトロは、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」と答え、イエスさまの言葉に従いました。すると、本当にたくさんの魚が網にかかり、船が沈みそうになったほどでした。その時、ペトロはイエスさまの姿を見ました。そのオーラ(気)がペトロを打ちました。神の業であると思ったのでした。そして、ペトロは、罪人である自分が聖なる方の前にいることが怖くなり、「主よ、わたしから離れてください。」と叫んだのでした。

 このように4人の弟子たちには、普通では考えられないことが起こったのでした。ところで、わたしたちも、弟子たちと同じように、罪赦された者として主の前に立つことが赦されています。そのように、神さまの恵みによって召された者が集まっている所が、教会です。ですから、私たちは、神さまの召しに応える者でありたいと思います。