マタイによる福音書27章45~54節
イースターの一週間前の今日は「棕櫚(しゅろ)の主日」といいます。今日から受難週が始まります。イエスさまは人々に大歓迎されてエルサレムに入城しますが、そのわずか四日後に、十字架につけられ死なれることになるのです。
先週は逮捕される直前までイエスさまは神さまにみ心を問い、苦しみ悲しみながらお祈りしていたお話を聞きました。すべての人の身代わりとなって十字架にかかって死ぬことは神さまから引き離され、捨てられることです。神さまのみ心はこの十字架によって人の罪を赦すことでした。イエスさまは最後には、すべてを神さまにお委ねして、これをお受けしますとお祈りしたのでした。
この後、ユダの裏切りによってイエスさまは捕えられます。イエスさまを妬んでいた祭司長たちや律法学者たちに仕向けられて罪のない神の子イエスさまは裁判にかけられます。ローマ総督のピラトは、十字架につけろと激しく叫ぶ群衆を前に、自分の身が危ないと思ってイエスさまに十字架刑を言い渡しました。こうしてイエスさまはゴルゴタの丘で十字架に架けられました。朝9時のことでした。イエスさまの両隣には二人の強盗が十字架に架けられました。イエスさまの頭上には罪状書きとして「これはユダヤ人の王イエスである」と掲げられていました。十字架の下では人々がイエスさまのことを馬鹿にしています。祭司長たちも一緒になってののしり、嘲笑っていたのです。
昼の12時、あたりは不気味な暗闇に包まれました。神の子を殺そうとする人間達…十字架につけろと叫ぶ群衆、死刑判決を下したピラト、十字架の下であざける人々、祭司長たち…の罪を表しているかのような暗闇でした。それが3時まで続きました。そしてイエスさまは十字架の上で大きな声で叫ばれたのでした。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。先週のお話でイエスさまが苦しんで祈られた、その理由がこの言葉によって明らかにされています。神さまに見捨てられる苦しみ、絶望を訴えている叫びなのです。このイエスさまの言葉は詩編の22編で、信仰者たちが自分に降りかかった苦難を嘆いているものに基づいているといわれています。イエスさまが人々の、わたしたちの嘆きをご自分の言葉としてくださって一緒に叫んでくださったのでしょうか。いや、それだけではないのです。もっと深刻で重い叫びなのです。イエスさまの十字架の苦しみはわたしたち人間の罪を背負って、身代わりとなって裁きを受けてくださった出来事です。本来ならば、わたしたちが裁きを受けて、この十字架で苦しまなければならないのです。それほどまでにわたしたちの神さまに対する罪というのは重いものなのです。
イエスさまのこの叫びを聞いた人の中には勘違いをして「預言者のエリヤを呼んでいる」といい、酸いブドウ酒を含ませた海綿を棒の先につけてイエスさまに飲ませようとする人がいました。他の人も「エリヤが救いに来るかもしれない」と見ていました。しかし、イエスさまは再び大きな声で叫ばれ、十字架の上で息を引き取られたのでした。神さまは本当にイエスさまを見捨てられたのでしょうか。
イエスさまが息を引き取られた時、神殿にある垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは神さまと人間との間にあった隔ての壁がなくなったことを意味しています。イエスさまが人間の罪の身代わりになってくださったことによって、ユダヤの人たちだけでなく、すべての人が神さまの御前に出ることができるようになったことを示しているのです。次々と不思議なことが起こります。地震が起こり、岩が裂けて、お墓が開いたとあります。イエスさまの十字架刑の責任者だった百人隊長と十字架を見張っていた人々はこれらの出来事を見て恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と信仰告白をしました。イエスさまによって神さまとの隔たりが取り除かれ、神さまとわたしたち人間との新しい関係が始まろうとしています。イエスさまは十字架に死なれて見捨てられて終わりではないのです。嬉しい予感のするお話の続きは、来週のイースターの礼拝で一緒に聴きたいと思います。