新しい天と地の到来

ヨハネの黙示録 21章1~8節

先ほど司会者の先生に読んでいただいた「ヨハネの黙示録」ですが、これは、ヨハネが、7つの教会に対して送った手紙の形で書かれています。ヨハネは、手紙を書き記した当時、パトモスという島にいたということが記されています。パトモスという島は、小アジア(今のトルコ共和国)にあったミレトスという港町の沖合に浮かぶ小さな島です。なぜそこにヨハネはいたのでしょう。それは、迫害のためでした。当時、その地域を支配していたローマ帝国は、イエスさまを神の子、救い主と信じている教会の人々を苦しめていました。クリスチャンだと分かると、牢屋に入れたり、競技場でライオンに襲わせたり、人間をたいまつにして燃やしたり、それは、恐ろしい迫害を加えていたことが、聖書にも記述されています。ヨハネは、教会の先生をしていましたから、ローマ帝国に捕まえられて、パトモス島に島流しにされていたのでした。

そんなヨハネに、神さまは、幻を見せました。それは、この世界がどのようになっていき、終わりの時を迎え、終わりのときには、イエスさまを信じる人々はどうなるのかという幻だったそうです。ヨハネは、神さまから見せられた幻を手紙に書いて、7つの教会に送りました。それがヨハネの黙示録です。

世界の終わりについて記されているのが、聖書の最後に配置されているこの黙示録です。では、世界の始まりは、いったいどのような形で始まったのでしょう。それは、聖書の一番初め、旧約聖書の創世記に、神さまが天地を創造されたことが記されています。6日を掛けて神さまは、天地を完成され、きわめてよい出来栄えに満足された様子が書かれています。天地の創造については、それを神さまの御業であることを信じることができない人もたくさんいると思います。わたしもその一人でした。たったの6日で天地が完成するなんて、そんなことがあるはずがない。そう単純に考えていましたが、神さまの時というのは、きっと長いのだと思います。一日というのが、もしかしたら、人間の言う何万年、いや何億年にあたるのかもしれません。そんな長い時をかけて、神さまは、その似姿をもつ人間が生きていける世界、環境を造り上げてくださいました。この地球上には、人間だけでなく、様々な生き物、生物がいます。水分、大気、温度、食物、それらすべてのものをすべての生き物が暮らしていくのに最適であるように、天地は設計されています。そんなことができるのは、神さまをおいては、ほかにはおられないでしょう。そういう目に見えないが、私たちが生きていくために必要なものをすべて備え、われわれの命を支えてくださっている存在を、神さまと私たちは、呼んでいるのだと思います。

しかし、人間は、罪を犯してしまいました。エデンの園でのアダムとイブの話に始まり、人間は様々な罪を犯し続けています。それは、今でも続いており、人間の住む世界には、戦争があって、人間同士が憎しみ合っていたり命を奪い合っていたりします。また、自分たちの生活を豊かにしたい、満足したいという欲に支配されて、神さまの整えてくださった地球の環境を破壊し続けるというおろかな行いの連鎖から逃れることができません。
ヨハネの黙示録にも、様々な災いが起こることが記されています。7つの封印が開かれます。七つのラッパが吹かれます。竜や二匹の獣が出てきます。七つの鉢の中身が注がれます。そのたびに様々な災いが伴います。それらの災いは、ヨハネの黙示録が書かれた当時では、ローマ帝国のキリスト者たちに与えられた苦しみや悲しみ(ローマ帝国による迫害)を示したものであったのですが、では、今の時代では迫害はなくなったのでしょうか。キリスト教を信じる故に命の危険を覚えるというようなことは、ありません。しかし、今の時代においても、先ほどお話したように、人間の罪によって、戦争や自然破壊というような、形を変えた苦難や心配事から、わたしたちが、解放されることがありません。元気な人でも、だれもが年を老いると必ず何らかの病気に苦しめられます。突然の地震や水害が起こったり、身近な人との人間関係に苦しんだりします。
他にも、事故や事件、犯罪、貧困、誘惑、冷淡、無関心、嘘、ごまかしなど、私たちの暮らしには、私たちを不安の中におとしいれるものが満ち溢れ、心を痛めながら生きているのが現状と言わざるを得ません。

そんな中を生きている私たちに、聖書の最後にあるヨハネの黙示録のその最後には、うれしい報せが記されています。今日、司会者の先生に読んでいただいた個所に、「それらのものが過ぎ去り、新しいエルサレムが天から降ってくる」という報せです。「その時、私は玉座から語り掛ける大きな声を聴いた。見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

この手紙を受け取った当時の迫害に遭っていた教会の信徒たちは、どれほど心強く思ったことでしょう。なぜなら、殉教の死を覚悟しなければならないような日々にさらされていたのです。その人たちにとって、死も嘆きも悲しみも労苦もない救いの完成の時が来るという約束は、厳しくつらい現実を生き抜いていくための希望になったはずです。イエスさまが再びやってこられる。そして、イエスさまの平安の中に自分もとどまることができるという報せを心の支えにして、迫害の嵐の厳しい時を、最後まで希望をもって生き抜いていくことができたのではないかと思われます。

今の私たちもきっと同じでしょう。キリストの再臨の約束は、苦難の向こうには、必ず、神さまの祝福があることを示してくれています。死の向こうに、私たちは希望があること。老いや病の向こうにも、また、人間関係のもつれの向こうにも、私たちには、希望があることを示してくれています。私自身は、苦難の中にある時、希望を失いがちになります。神さまがいるなら、こんなことになるはずはない。神さまなんて本当はいないのかもしれない。そんな不信仰な気持ちになり、祈っていても、心の整っていない乱暴な祈りになってしまう。そんな自分を悔います。

信仰とは、希望を見失わないことであると思います。私たちには、救いの完成の時の到来が約束されているのです。たとえ、厳しい現実に苦しむことがあったとしても、あきらめてはいけないことを聖書は教えてくれます。くじけてはいけない。イエスさまを見失わないこと。救いの完成の時を信じて歩んでいきたい。お話をさせていただきながら、そんな思いを持つことができたことに深く感謝をしたいと思います。

最後に祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。今日は、ヨハネの黙示録について学びました。私たちは様々な課題や困難に出会ったとき、不安に陥り、心が弱くなったり、希望を見出せなくなったりしがちな弱い存在です。そんな時、聖書は大きな希望を与えてくれます。神さまの御心がどこにあるかを知り、御心に適う生き方ができますように、私たち一人一人の歩みをどうか導いてください。この一言の祈りをイエスさまのお名前を通して御前におささげします。アーメン。