見たことがないのに愛し

ベトロの手紙Il章3~9節
 聖書の言葉の中に、こういう言葉があります。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピの信徒への手紙3章20節)。本国というのは私たちが帰るべき所です。私たちそれぞれに命を与えられて、生きているのですが、私たちはどこに向かって生きているかというと、「天」に向かって歩んでいる。生きているのですね。じやあ、「天」とは一体どこなのでしょう。天とは私たち人間をお造りになって命を与えて生かして下さっておられる神さまが支配しておられる所です。天国と言い換えても良いかもしれません。実は私たち人間ほ皆、そうやって天を目指して生きているのですが、そのことに人間はなかなか気がつきません。毎日慌ただしく生活していますね。皆さんのような子どもたちは保育園や幼稚園に通います。段々大きくなると小学校へ上がります。さらに中学、高校、大学に進む人もいるでしょう。大人になればお仕事をします。段々と年を取ります。病気になることや失敗することや行き詰まることもあるでしょう。この間、能登で大きな地震がありましたが、災害も起こるでしょう。事件や事故もあるでしょう。戦争が始まるかもしれません。とにかく私たちの生活・人生には色々なことが起こります。でも私たち人間は皆、天におられる神さまの元に向かって歩んでいるのです。松山城東教会の礼拝堂にはこの教会で神さまを信じて遂に亡くなられた方々の名前が沢山書かれたプレートが掲げられています。私たちもいつか必ず死を迎えねばなりません。そういう限りのある命に私たちは生きている。でもね。死んでしまったらそれでお終いなのではないのです。多くの人々は死んだらお終いだとそう思って生きています。でもね。本当はそうではない。死を乗り越えて私たちは神さまが待っておられる天に帰ることの出来るそういう道がちゃんと備えられている。その道ほ決して平坦では無い。「試練」と呼ばれる苦しみや悲しみ、重荷を私たちは皆それぞれに抱えながらこの地上の生活を生きていかなくちゃなりません。でもね、どんなことが起ころうとも、死を明日迎えねばならなくなったとしても、私たちは天の国に繋がる救いの道を歩むことが出来る。私たちを造られた天の父なる神さまが待って下さっておられる所に帰ることが出来る。そういう希望を私たちは与えられているのです。
 その希望を与えて下さったのがイエスさまです。イエスさまは神さまの独り子です。その独り子であるイエスさまが私たちに、ちゃんと帰るべき所があなたにはある。押さまがあなたが帰ってくるその時を待っておられる。その天に至る道をイエスさまはあの十字架によって開いて下さったのです。神さまに命を与えられ生かされていることを見失い、死んでしまったらお終いだと思って希望を失っていた私たちの罪をイエスきまが引き受けて、身代わりとなって十字架に架かって死んで下さった。その犠牲によって天におられる神さまの所に続く道をイエスさまは開かれたのです。そしてその救いの道は、死によっても無くならない、死を越えて私たちは神さまの元に帰ることが出来る、そのことをイエスさまは甦られて明らかにされたのです。イエスさまは本当に十字架の上で死なれましたが、三日目に甦られ、天にお帰りになられました。このイエスさまを信じて私たちは、本国である天に向かうその道を一歩一歩進んで行くのです。何よりも甦られたイエスさまが私たちと共に歩んで下さっておられます。イエスさまのお姿は見えませんけれども、聖霊と言ってイエスさまがお与えになった霊の力に助けられ、支えられながら私たちは希望を持って歩むことが出来るのです。イエスさまが今日も明日も私たちと一緒に歩んで下さる、生きて下さる。これが私たちに与えられている確かな希望です。
 今日の手鰍は、イエスさまの一番弟子であったベトロさんが書いたと言われています。そのベトロさんがイエスさまとお会いしたことのない教会の信徒たちが聖書によってイエスさまのことを知り、イエスさまを信じて希望を抱いて喜んで信仰の道を歩んでいる姿を見て感動しています。私たちもイエスさまと直接お会いしたわけではありません。でもこうして日曜日の礼拝ごとに聖書によってイエスさまが私たちと共におられ、天国に繋がる道を一緒に歩んでおられることを教えられています。そのことを私たちも信じて今週も元気に歩みたいと思います。