試練を耐え忍ぶ人は幸い

わたしたちは、病気やケガをしたり地震や災害に遭ったり戦争が起こったり、いろいろな試練を受けることなく、日々楽しく過ごしていきたいと願います。しかし、なかなかそうもいきません。お正月から大変な災害や事故が起き、わたしたちもそれぞれに思いがけないことや思い通りにいかないことがあったと思います。それは神さまから与えられる「試練(しれん)」であったと言えます。神さまは苦難の「試練」を通して大事なことを教えたり、わたしたちの信仰を強くするために心を鍛えたりしてくださるのです。
といっても、今テレビで流れている悲惨な戦争や災害の現実を目の当たりにすると、どうして神さまはこのような試練をわたしたちにお与えになるのか、神さまのわたしたちへの愛を疑ってしまいます。神さまなんて信じることなどできない!と思うかもしれません。このように神さまから離れようとする罪の誘惑にそそのかされてしまうわたしたちなのです。

誘惑に陥らず負けないように耐え忍ぶにはどうしたらよいのでしょうか。「耐え忍ぶ」というもともとのギリシャ語の言葉は「下にとどまる」という意味だそうです。例えば戦争の時、地面の下に防空壕を掘り、その中にとどまって爆弾から身を守ったと言われています。自分を守ってくれるものを信じてその下にずっととどまる、というのが本来の意味なのです。
わたしたちをどんな試練からも守って下さる強いお方を信じ続けること、そしてこのお方のもとにじっと踏みとどまれば大丈夫ですよと聖書は教えています。そのお方はそうです、イエスさまです。イエスさまはあの荒れ野での悪魔の誘惑に打ち勝たれました。十字架へ向かう苦しみの中で祈り続けて耐え忍ばれました。そしてわたしたちの代わりに罪の裁きを引き受けてくださいました。そのイエスさまはわたしたちが苦しみ悲しみの中にある時に、打ち勝つ力を与えてくださいます。イエスさまを心から信じてイエスさまが教えてくださった主の祈りを祈るとき、イエスさまはいつも一緒にいてくださるのです。

この手紙を書いたヤコブはイエスさまの復活の後に信仰を与えられ、ペンテコステの日に世界で初めて建てられたエルサレム教会の大事な指導者の一人となりました。この手紙が書かれたころ、初代教会は迫害の中にあって、信徒たちは様々な試練を受けていました。ヤコブは、神さまは試練を与えられますが、悪魔がそれをわたしたちの誘惑となるように仕向けるのだと語ります。わたしたちが信仰を持って試練を受け止めるなら、それはわたしたちの信仰を強める助けとなり、しかし自分の欲望のためにすると、それはわたしたちを罪に陥れる誘惑となると教えています。
ヤコブは「行いを伴わない信仰は死んだもの」だと語り、信仰者の具体的な在り方を教えています。ヤコブが問題にしたのは「行いではなく信仰によって義とされる」というパウロの言葉が誤解されている人々がいることでした。救われるのはただ神さまの恵みであって、行いによるのではありません。神さまはわたしたちがよい子にしていて、よい行いをしたから罪を赦してくださるのではありません。イエスさまを救い主と信じる信仰によってのみ救ってくださいます。そのパウロの言葉がいつの間にか、「行いで救われるわけではないのだから、何をしてもよい」という間違った考えをする人が出てきました。ヤコブはその人々にこの手紙によって忠告し戒めています。
ヤコブの語っている、今日の箇所の「忍耐=耐え忍ぶ」という「行い」はイエスさまの救いがあったからこその「行い」が語られているのです。つまり、この試練を耐え忍ぶことができるのは、わたしたちが頑張るからではなく、すでにイエスさまがわたしたちを救ってくださり、ともに歩んで忍耐する力を与えてくださるからなのです。心の中で信じていたらよい、というのではなくて、日々の生活の中で神さまの恵みに、イエスさまとともに神さまのみ心を問いつつ、よい行いで、神さまにお応えしていくこと、それを神さまは願っておられるのです。そのように歩んでいくわたしたちを見て神さまは喜んでくださるのです。