神の言葉である聖書

テモテへの手紙Ⅱ 3章14~4章5節

 先ほど司会者の○○先生に読んでいただいた「テモテへの手紙」ですが、これは、パウロが信頼する仲間であるテモテに対して送った個人的な手紙になります。パウロは、ローマの信徒への手紙コリントの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙というように、伝道した地域の教会に人々に対して、いくつかの手紙を書き残しています。また、個人に対しても何通かの手紙を書き、「テモテ」に対しては、Ⅰ、Ⅱと2通もの手紙を書き残しているのです。そのテモテという人は、いったいどういった人物だったのでしょう。
 パウロは第2伝道旅行の際には、第1回目の伝道旅行を共にしたバルナバではなく、シラスと同行しました。バルナバとは、意見が合わずに決裂してしまい、バルナバはマルコを、そしてパウロはシラスを連れていくことになったとテキストに書かれていました。そして、パウロは、ルステラの町でテモテで出会ったのだそうです。「ルステラ」という町を巻末の地図で調べてみました。すると見当たりません。よくよく調べてみると、文語訳聖書、口語訳聖書では「ルステラ」、新共同訳聖書では、「リストラ」と表記されているという説明があり、小アジア、今のトルコに存在した町であったことを確認することができました。
 では、そこで、出会った「テモテ」というのは、どんな人物だったのでしょう。「父はギリシャ人でしたので、テモテは国際的な感覚を身に付けていました」また、「ユダヤ人の祖母ロイスと母エウニケから聖書を通してキリスト教信仰を学び、回心していた」とあり、ギリシャ文化とユダヤ文化の両方を理解できるテモテは、ヨーロッパ伝道に遣わされるパウロにとってふさわしい助け手であったと説明されています。
 わたしは、前回のCS礼拝でお話させてもらった中にもテモテが登場したことを思い出しました。パウロたちが伝道を進めたギリシャやトルコ、イタリアなどの地中海沿岸の町には、たくさんのユダヤ人が住んでおり、その人たちから激しい迫害に遭ったことが書かれています。テサロニケでは、宣教活動は数週間しかできず、パウロは、暗闇に紛れて、他の町に送り出されたのです。自分たちが去った後、テサロニケの教会はもうなくなってしまっているのではないかと心配したパウロから、テサロニケの教会の様子を調べてくるように命じられたのが、テモテでした。テモテがテサロニケに行き、教会の様子を調べてみると、信徒はパウロの教えをしっかりと守って、ますます盛んに活動をしており、テモテは、そのことをパウロに伝えたという内容でした。
 パウロはそんなテモテを「わがテモテ」と呼ぶほどに愛し、テモテも息子が父に仕えるように、パウロと共に福音伝道に仕えたのだそうです。しかし、テモテは、若くて純粋なだけに、自らの弱みも感じていたと記されています。彼は、気が小さくて、くよくよする性格であったようです。また信仰が純粋であったということから、悩むことが多かったということです。胃腸が弱かったという説もあります。そんなテモテですが、パウロは絶大な信頼を置いています。手紙の中でパウロはテモテに、「早く私のところに来てください。」「何とかして冬になる前に来てください。」と記しています。強くて大胆なパウロと気弱なテモテ。対照的なように思えますが、お互いが補い合っているような存在だったたようで、パウロはテモテから、励まされたい、癒されたいという気持ちをもっていたようです。
 ところで、今日の聖書の箇所では、パウロがテモテを励ましています。「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」と書かれています。そして、「聖書は、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのようなよい業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」と続けています。ここではテモテを励ますものとして、聖書が特に取り上げられ、語られています。
 そんなテモテなのですが、私は、テモテに親近感を抱きました。2度のお話にたまたま登場したという偶然もありますが、わたしもテモテと同様に気が弱く、小さなことにくよくよしてしまいがちな性格です。周りの目を気にして、なかなか決断ができない。なかなか自分の考えを表明できず、考えを実行するのにも時間がかかります。そんな自分には、パウロの言葉が自分に対して書かれているような気になります。
 わたしも教会に通うようになり、15年になります。それまでには、精神を病んで長期にわたって仕事を休むようになることも2度ありました。しかし、教会に通うようになってからは、不思議に鬱に陥ることがなくなりました。なぜだろうと考えた時、聖書のみ言葉、そして説教からわたしが励ましや勇気を受けていること、それが一つの原因ではないかと思われます。わたしが励まされている聖書のみ言葉をいくつかあげさせていただきます。
 一つが、「強く雄々しくあれ。」というみ言葉です。神さまご自身からモーセを通して、イスラエルの民やモーセに対して語られたものです。わたしは前に進むことが困難になりそうなときに、このみ言葉をよく思い出します。すると、とどまっていてはいけない。とにかく前に進んでみよう。そのような気持ちにさせられることがよくあります。何度も繰り返し励まされ、後押しされることによって、弱い自分も前に向いて歩めている。そんな気がします。
 もう一つだけ挙げさせていただきますと、それは、「隣人を愛せよ」(マタイによる福音書22:39)というみ言葉です。しかし、自分の生活を振り返ってみた時、隣人を愛するということは、とても難しいことだと思います。困っている人を見かけても、何もできない自分であることを感じる場面がたくさんあります。そんな時には、どうしたらいいのでしょう。あるHPでは、まず第一にあなたが隣人にすべきことは祈りですと書いてありました。
  今日の聖書箇所に戻ります。「聖書は、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのようなよい業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」と書かれています。わたし自身の例を挙げさせていただきましたが、お一人お一人には、自分を支え導いてくれる聖書のみ言葉がそれぞれにいくつもあるはずです。そのようなみ言葉を知ることができる場所が、この教会です。そして、み言葉を通して交わり、よい業を行うことができるようにお互いが整えあっている場所も教会であると信じます。説教を通して、聖書のみ言葉にふれ、神さまの愛を正しく知ることができます。神さまがともにいてくださるということを繰り返し示していただけます。また、信徒や先達の皆さんからは、信仰を生かしてどう生きていけばよいのかということについて勇気や知恵を教えられます。そのような場に今日も集わせていただいている幸いに心から感謝したいと思います。