テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~22節
先ほど司会者に読んでいただいた聖書の箇所に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉がありました。これは、「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」にあり、パウロによって書かれたものです。パウロは、宣教旅行を何度も行い、キリストの福音を広くギリシャやトルコ、イタリアなどの地中海沿岸の国々の人たちに伝えていった人です。しかし、そこにある町には、たくさんのユダヤ人も住んでおり、その人たちから激しい迫害に遭いました。捕まえられて牢に入れられたり、命を狙われたりしたことも何度もあったようです。そんな状況にもかかわらず、テサロニケの町でもパウロとシラスはイエスさまの福音を宣べ伝えました。しかし、その宣教活動はわずかの間、数週間しかできず、パウロたちは、暗闇に紛れて、他の町に送り出されたと聖書には書かれています。
そんな数週間の滞在期間しかなかったテサロニケです。パウロは、自分たちが去った後、テサロニケの教会はもうなくなってしまっているのではないか、信徒たちも散り散りになって、イエスさまの福音を信じる人はだれもいなくなってしまったのではないか、と心配していました。
そこで、パウロは、テサロニケの教会の様子を調べてくるように仲間のテモテに命じました。テモテがテサロニケに行き、教会の様子を調べてみると、信徒はパウロの教えをしっかりと守って、ますます盛んに活動をしていました。パウロから教えられた福音を信じ、イエスさまの教えを守り、迫害の中、しっかりと信仰を守り、その姿は他の教会の模範となるものでした。テモテは、そのことをパウロに伝えました。パウロの心配は吹き飛んだことでしょう。きっと大きな喜びに包まれたことでしょう。パウロの祈りが通じたのでしょう。そして、パウロは、テサロニケの信徒を守り導き続けてくださっているイエス・キリストと父なる神さまに深く感謝をしたに違いありません。そんなパウロが、心を込めて書き送ったのが、このテサロニケの信徒への手紙です。
その中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というパウロの言葉が出てきます。この言葉は、テサロニケの信徒へ送られたものではありますが、きっとパウロ自身にも語られた言葉ではないかという気がしました。パウロは、行く都市、行く都市で迫害に遭い、逃げまどいながらも宣教を続けてきました。しかし、どんな苦難の中にあっても、パウロは、決して宣教を諦めることはなかったようです。一つの町で一人の信者が生まれる度に、きっとパウロは、心から喜んだことでしょう。大きな苦しみや困難の中でしたが、喜びを失い、希望を失うことは決してありませんでした。どうして、パウロにはそのような強さがあったのでしょう。
そのカギは、二つ目の絶えず祈りなさいという言葉にあるように思います。パウロはイエス・キリストを心から信じていたのでしょう。パウロがまだサウルと呼ばれていた頃に、直接に「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。」とイエスさまから声を掛けられたことがありました。パウロはその時から心を入れかえ、イエスさまを心から信じる人となりました。そして、いつでも祈りを欠かさなかったことでしょう。テサロニケをたったの数週間で去ることになりましたが、その時に得た信徒一人一人を覚えて、その信仰がなくならないように、イエスさまの福音がさらに広く宣べ伝えられるようにと祈り続けたことでしょう。そんな祈りを救い主のイエス・キリストに聞いてもらうことが自分には赦されている、自分の祈りがイエスさまに届き、きっと自分の犯してしまった罪を赦してくださる、自分を守り、導いてくださる。そのように祈りによって、パウロは喜びや希望を失うことはなかったのだと思います。祈りは、苦しい時、困難に直面した時にも希望を生み出す源となるのだと思います。
城東教会の牧師であられたN先生が突然の重い病気となり、厳しい闘病生活を送られるようになりました。わたしがN先生だったら、突然の大きな病に侵されたことを知ったなら、希望を失い、「祈ることなんてできっこない、祈ったところで何も意味がない」と考えるかもしれません。もしかしたら、「助けてください、助けてください」と自分の命乞いをひたすらするかもしれません。しかし、N先生は違っていました。「イエスさまがベッドの下で私を支えていてくださる。だから、うれしい。」というように感謝の気持ちで祈られていたということをご夫人の手紙から知りました。
テサロニケの信徒への手紙にある、三つ目のどんなことにも感謝しなさいという言葉は、いったい何を伝えようとしているのでしょうか。N先生が厳しい闘病生活のベッドの上で、感謝の祈りをささげることができたということは、いったい何を伝えようとしているのでしょうか。信仰が強い、信仰が深いというだけでは説明がつかない何かを感じます。普通に考えたら、もし自分だったら、神さまに命乞いをするのが精いっぱいだと思います。しかし、N先生は、そんな時においても、神さまに感謝の祈りを捧げることができた。感謝を忘れることがなかったというのです。ここには、命を越えた何か、死を越えた何かをあることを考えてしまいます。
今日の修養会では、終末がテーマとして取り上げられます。終末には、天に引き上げられたイエスさまが再び地上に降りて来られる。そして、新しい天と新しい地が天から下ってくるとヨハネの黙示録には書かれています。今日読んだテサロニケの信徒への手紙にも、それに関連することが書かれています。「テサロニケの信徒たちを悩ませていたのは、すでに死んでしまった教会員の行く末でした。イエスさまのこの世への再臨を待たずして死んでしまったキリスト信仰者たちはいったいどうなるのでしょうか。彼らは天の御国に入れるのでしょうか。」あるHPには、そのようにテサロニケの信徒の人たちの悩みが解説されていました。パウロはその悩みにこのように答えています。4章14節「イエスが死んで復活されたとわたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」
N先生が、天に召される直前まで、感謝の祈りを忘れることがなかったのは、命を越えて、神さまが再臨の時に自分を揺り起こし、導き出してくださるということを真実として信じ切っておられたから。わたしは、そのように感じます。自分がN先生と同じような立場に立った時、命乞いをするだけでなく、感謝の祈りを捧げることができるだろうか。それは、今の自分には、正直分かりません。でも、先達の牧師先生、自分を教会に導いてくださった先生の生き様や信仰の姿を知ることは、自分にとっても大きな喜びであり、希望となることは間違いないと思います。
ついでに祈りについて、自分が感じていることを最後にお話ししたいと思います。先日の祈祷会の奨励でもお話させていただいたのですが、祈りの不思議な力のことです。「私たちは、苦難や艱難にある方のことを覚えて祈ることがあります。毎日祈り続けることもあるでしょう。そして、その祈りの対象の方が、ある日元気な姿を見せてくださった時、何とも言えないうれしい気持ちになります。素直にうれしい気持ちを、喜びを顔に出し、その方に声を掛けることができるのです。そうすると、その方も必ず笑顔を返してくださいます。そんな時、神さまへの感謝の気持ちが大きくわいてきます。もし、自分の中に祈りがなかったとしたら、きっと元気な姿を見ても、うれしい気持ちはわかないでしょうし、その方と気持ちを通じ合わせることもできないでしょう。祈りは、神さまに対してなされるものですが、祈りを通して、神さまは私たち人間の心を結び合わせてくださいます。しかし、神さまは、すべての祈りを聞き入れてくださるわけではありません。ですが、聞き入れられなかった祈りも神さまはすべて知っておられます。そのことを信じることで、私たちは神さまのご計画とは違うのだということを知らされ、待つことを教えられたり、別の考え方をしてみることを提案していただけるのだと思います。」
ここまでお話を考えていて、喜びと祈りと感謝という今日の三つのキーワードは、どれも密接に関連していて、切り離して考えることができるものではないことがよく分かりました。そして、どれも、「キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」と聖書に書かれているように、「あなた方」が対象であり、一人で喜ぶ、一人で祈る、一人で感謝するだけのものではないことが大切なポイントであることもよく分かりました。また、「キリスト・イエスにおいて」と示されているように、教会が大切な役割を担う場所であることも忘れてはならないことだと思います。神さまが望まれている「喜び・祈り・感謝」の姿を実現するために、城東教会がテサロニケの教会と同じように、模範となる教会になってほしい。そのように神さまに導いていただきたい。そのように感じた今日のお話でした。