ガラテヤ教会はパウロが伝道して誕生した教会です。パウロはここで、人々にイエスさまの福音を次のように伝えました。天地を創造された唯一の神さまを、わたしたち人間は見失い、自分のことばかり考えてみ心に背き、罪を犯していること、神さまの前には誰一人として正しく生きていると言える人はいないということ、そしてどんなに人間が努力をしても神さまから「義」(神さまに「よろしい」と言っていただくこと)とされないこと、つまり罪を自分でどうすることもできないこと、しかし、イエスさまはそのような人間の罪を神さまに赦してもらうために、人間の身代わりに十字架にかかって贖ってくださり、新しい命に生きることを与えてくださったこと、そしてこのイエスさまへの信仰によってわたしたちは「義」とされるということ(つまり信仰義認ということ)を、ガラテヤの人々に伝えたのでした。
パウロが語る福音を聞いて、ガラテヤの人々は喜び、信じて洗礼を受けたのです。それがガラテヤ教会の人々だったのです。が、パウロが他の町へ伝道するためいなくなった後に、この教会で大きな問題が起こったのです。イエスさまを信じるだけでは足りないのではないか、もっと良いことをしないと神さまはお喜びにならないのではないか、と違う福音を語る人が出てきたのです。人々は十戒を中心とした律法を守って良いことをしないと救われない(つまり行為義認)と思うようになってしまったのです。惑わされ、本当の福音から離れてしまいそうなガラテヤ教会の人々にパウロはこの手紙を書いたのです。
わたしたちが良いことをしたから、神さまが「義」であると言ってくださるのではありません。わたしたちの行いに応じて救われるのではありません。救いは神さまからの恵みであり、一方的なプレゼントです。わたしたちが罪を赦されるために必要なことはイエスさまが十字架ですべて成し遂げてくださいました。だからわたしたちがなにか付け足すことなどないのです。わたしたちの行いによって救われようとする生き方は、自分の行いが大切になり、イエスさまの十字架を無意味にしてしまいます。ただ、わたしたちはイエスさまを信じるだけでよいのです。イエスさまによって与えられる「義」を受け取ればよいのです。義を受け取る、つまり洗礼を受けることです。洗礼とは古い自分に死ぬことです。古い自分はイエスさまといっしょに十字架につけられるのです。でもこのまま死で終わることはありません。洗礼によってイエスさまと結ばれ神の子とされ、新しくイエスさまと同じように神さまに対して生きるものとされるのです。
20節に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが、今、肉において生きるのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と記されています。肉体を持ってわたしたち人間は生きています。洗礼を受けてイエスさまと結ばれた後も肉体に変わりはありません。しかし、もはや律法を実行するという形で「肉的」に生きることはもうしません(行為義認の生き方をしませんということ)。なぜなら、わたしのうちにイエスさまが生きておられるからです。逆戻りをしてしまったガラテヤ教会の人々に、パウロはもう一度神さまが与えてくださった恵みの中に入るようにと強く願い、語っています。イエスさまを信じて洗礼を受けた人の内にイエスさまが生きておられるのだというパウロの教えをわたしたちも心に留めたいと思います。多くの子どもたちがイエスさまを信じ、わたしたちの内に住んでくださるイエスさまとともに生きる、イエスさまに倣って歩んでいく道が与えられますよう祈ります。