コリントの信徒への手紙Ⅱ12章7~10節
パウロの伝道旅行において彼が経験したことを通して、私たちに忠告してくれていることだと思います。パウロが、自分自身には弱さしか誇るものがない。わたしにはとげが与えられており、それを三度主に取り除いてくださいと祈ったということが聖書に書かれています。三度祈ったというのは、何度も祈ったということと同じことです。しかし、神さまからは、「主の恵みは、あなたにとって十分である。」というものであり、彼のとげが取り除かれることはありませんでした。彼のとげというのが何であったのかということは、はっきりとわかりませんが、とげがあったことで、彼が傲慢になったり、高慢になったりしなかったことは、彼にとってよかったのではないかとも思えます。パウロはすぐにかっとなることがあり、その短気さは、とげのひとつかもしれません。あんなことを言わなければよかったと彼は悔い改めながら伝道を進めていくことがあったようです。
自分自身のことを振り返ってみても、あんなことを言わなければよかったと言ってしまった後で、後悔することがありました。有名なダビデ王を通して、教えられることもあります。彼が最も大きな罪を犯してしまった後で、ナタンという預言者が彼に話しました。「二人の男がいました。一人は大金持ちで、もう一人は、たった一匹の羊しか飼うことのできない貧しい人でした。しかし、貧しい彼は、寝る時も食事をするときも、絶った一匹の羊を大切にし、自分の子どもに対するように接していました。ある時、お金持ちの男の家に旅人が来ました。お金持ちの彼は、貧しい男の羊を捕まえ、旅人のために屠ってしまったというのです。」この話を聞いて、ダビデは「ひどい奴だ。4倍にして償え。」と金持ちの男に対して腹を立てました。しかし、その後のナタンの言葉は、「その金持ちの男というのはあなたのことです。」というものでした。そして、ダビデは自分の犯してしまった罪の大きさや重さに気付いたのです。
わたしは、この話を聞いて、この子羊は、ダビデのために死んでくださったイエス・キリストではないかと感じました。子羊が屠られたことによって、彼は悔い改めました。そして、本当の信仰が生まれたのです。私たちもダビデと同じように傲慢になったり高慢になったりすることがあります。そんな時にとげを覚え、子羊のことを思い出したいと思います。イエス・キリストが私たちの代わりに人間の罪を背負って十字架にかかってくさったことによって、私たちの信仰生活があるのですから。