コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1~13節
今日の聖書の個所の最後に、「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」と書かれています。最初、読んだ時には、うーんとうなるしかできませんでした。確かに、信仰と希望と愛は、すばらしく、いつまでものこるものだろう。しかし、このテーマについて自分が何を話すことができるのだろうと、途方に暮れる思いがしましたが、お借りしているテキストを何度か読んでいるうちに、おぼろげながらですが、自分なりに少しずつ分かってきたことがありますので、そのことを今日はお話したいと思います。
この手紙は、コリントの教会の人たちに送ったものでした。コリントの町というのは、パウロが第2伝道旅行の際に、1年半の間、伝道に励み、ついに教会を誕生させた町です。では、なぜ、この手紙を送ったのでしょう。パウロがコリントを離れた後、コリント教会には分派活動が起こったそうです。また、不道徳な人々との交際があったり、偶像に備えられた肉を食べてよいかなどの問題が起ったり、さまざまな問題が山積して、教会がその命である信仰を失いそうになっていたと書かれていました。そこで、パウロが手紙を書いて、教会の間違いを正そうとしたという説明がありました。
今日のテーマである「いつまでも残るは信仰、希望、愛」というみ言葉が出てくる前後の文脈をもう一度読んでみると、前には、次のように書かれています。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。」その後に「今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知ることになる。」と書かれています。完全なものが来た時というのは、きっと再臨の時のことを指しているのではないかと思います。
当時のコリントの教会の人たちも、また、今の私たちも同じなのですが、イエスさまのお顔というのは、聖書のみ言葉を聞いて、そして信仰を通して、おぼろにしか知ることはできません。しかし、その時には、顔と顔を合わせてイエスさまを見る、イエスさまにお会いできるというのです。そして、その時には、預言や異言、知識は部分的なものであるために廃れてしまっている。しかし、信仰と希望と愛の三つはいつまでも残るものである。その中で最も大いなるものは愛である。だから、「愛を追い求めなさい」と次の章で語りかけているのです。
先ほどもお話しましたが、コリントの教会ではパウロが去った後、分派活動が起こりました。さまざまな預言や異言や知識が生まれ、どれを信じる、信じない、誰を信じる、信じないということで、争いが生じていたようです。教会がばらばらになりかけた状態ではなかったかと思います。そんな状態というのは、今の私たちにもよくわかります。最も大いなるものである「愛」がなくなりかけている状態ではないでしょうか。
「愛」については、わたしも偉そうに語れるようなものではありません。13章の4節に「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。・・・」という有名な聖句があります。そこに自分の名前を入れてみるとよいというアドバイスがありました。岡田は忍耐強いNO!すぐにくじけそうになります。岡田は情け深いNO!自己中心的で軽薄です。ねたまないNO!すぐに自分と人を比べ、人が優れていると感じると心を閉ざします。・・・続けていってもNO!NO!NOです。愛は自慢せずというのがありますが、わたしがこのようにNO!NO!NO!と答え続けるのも自慢したい心の表れかもしれません。
それでは、自分の名前の代わりにイエスさまを入れてみてくださいとアドバイスは続きます。イエスさまは忍耐強い、イエスさまは情け深い、イエスさまはねたまない。今度はさっきと逆でYES!YES!YES!すべてあてはまると答えてしまいます。それは、私たちはキリストの十字架の出来事と復活について知っているので、自信をもってそのように答えることができるのですね。
私たちは、罪を抱えた人間ですから、いろいろな問題を起こしてしまいます。そんなときのイエスさまの愛についてテキストでは、つぎのように説明されています。引用します。「教会でも、それぞれの家でも、皆が仲良く互いに配慮し合って生活できていたのでしょうか。実はそうではありませんでした。がっかりするような争いがありました。教会の中で孤立し寂しい思いをしていた人たちもいたのです。そして教会の外でも、それぞれの家でも、いろいろな問題を抱えていたことが想像できるのです。イエスさまは、家でも、教会でも、また学校でも、互いに大切に思うことができていない私たちの人と人とのつながりの中に入ってきてくださり、私たちがもっているいろいろな人とのつながりを修復してくださる方です。私たちは自分の力で周囲の人々を大切に思い、そのために自分を差し出していく人間になることはできません。しかし、イエスさまはご自分の命さえ惜しまず捨てて、私たちを愛してくださいました。人を愛することに絶望するしかない私たちですが、イエスさまが私たちを愛してくださったことを知ると、私たちは変えられるのです。イエスさまの愛が私たちの内に働いてくださり、人を傷つけるのでなく、私たちを新しくイエスさまの愛に生きる者としてくだざるからです。」
私たちは、望んでそうしているわけでは決してありませんが、人間関係を壊してしまうことがあります。そして、一度壊してしまった人間関係は、なかなか元に戻すことができません。そんな人間関係を修復してくださる方がイエスさまであるというのです。イエスさまの愛を知ることで私たちも変わることができる。変えていただける。その言葉は確かに大きな希望です。NO!NO!NO!としか答えることができなかった私が、イエスさまにほんの少しだけでも近づける道があるとしたら、それが信仰の道なのでしょう。今日のお話のテーマは「いつまでも残るは信仰、希望、愛」ですが、自分なりにその関係をまとめてみると、「信仰を通して、希望が生まれる。そしてそれを支えている土台となるのが愛であり、愛を失った状態では、信仰も希望も本物ではなくなり、すぐに消え去ってしまう。」という風に理解することができます。
もう一つ、愛については、別の側面からの説明があります。愛の役割についてです。本日の聖書箇所の前の12章には、27節以下で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」というみ言葉があります。教会を構成する人の役割として、「使徒・預言者・教師・奇跡を行うもの、病気を癒す賜物を持つもの・・・」といろいろな役割が挙げられています。しかし、キリストの体を造り上げるために、みなが同じキリストの体の部分であり、当然のことながら体は一つですから、一致していなければなりません。その一致のために必要なものこそが愛なのです。テキストにはそのように解説されていました。
教会に限らず、私たちは、家庭をはじめとして、いろいろな組織の中に存在しています。そして、神さまから一人一人が賜物をあたえられ、それを生かして組織の中で生活しています。その組織が体として一致するためには愛が必要であると書かれているのです。どの組織においても同じでしょうが、様々な問題が起こります。私が勤めている学校という組織にもあります。昔、「学級王国」という言葉がありました。自分の担任している学級だけのことを考えて、自分のクラスの子どものことだけを大事にする。ほかのクラスのことには無関心で、困った問題が起こっていても関わろうとしない。自分のクラスは安定しているので、管理職からもよい評価を得られがちなのですが、周りのクラスからは悪口や陰口の対象とされる。学年全体や学校全体としてはまとまりがない。体として一致していない状態であると思います。
今は、共通理解を図りましょう。一つの学級の問題を一人の教師が抱え込まないで、みんなで支えましょうという雰囲気になってきており、問題を抱える子どもについて教師全体で相談したり、管理職も一緒に指導に当たったりするケースが増えてきました。昔と比べて、一つの体「学校」として一致するためにいろいろな立場の教員が賜物を発揮し合おうとする雰囲気になりつつあると感じます。しかし、そこには、様々な問題をみんなで重荷を背負いつづけていかなければならないという苦しさがあります。確かに、忍耐強さや情け深さが不可欠です。また自慢しないことや自分だけの利益を求めないことなど、聖書に示されている愛の姿が必要になることを実感することができます。
最後に、教会についてわたしが思うことですが、教会には、素晴らしい愛の姿があることを日々感じています。それは祈り合うという伝統です。一人一人が自分のことだけしか祈らなかったらそれは一つの祈りでしかありません。しかし、10人の人がお互いのために祈りあったら、それは十の祈りになります。10倍の時間や労力がかかるかもしれませんが、それこそが「忍耐強さ」「情け深さ」といった愛の姿であると思います。そして、そんな姿をパウロはコリントの教会に求め、そしてイエスさまも私たち一人一人に求め続けられているのではないかと思います。確かにむずかしいことなのですが、私たちには信仰があり、希望があります。イエスさまの愛に応えるためにも、自分自身が確かな愛を求める生活を、命ある限り続けていきたいと今日のお話を通して感じました。
最後に祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。今日は、愛について学びました。イエスさまの十字架の死によって罪を赦され、復活によって希望を与えられながら、イエスさまの愛に守られ、生かされていることに改めて気が付くことができました。ありがとうございます。神さまからいただいた賜物を皆で生かし合い、この城東教会を神さまの一つの体として、守り続けていくことができますように、私たち一人一人を用い、お支えください。この一言の祈りをイエスさまのお名前を通して御前におささげします。アーメン。