試練を逃れる道

礼拝説教 コリント10:13

 今朝の聖書には、「試練」という少し難しい言葉が出てきました。試練というのは、試すという字が入っていますね。人間は色々なことを経験しながら成長していきます。嬉しいことや楽しいこともありますが、辛いことや苦しいこと、悲しいこと、大きな重荷を背負わされるような苦労も沢山あります。試練というのほそういう苦しみや悲しみ、重荷を与えられることです。よく、「苦労は買ってでもしろ」言われますね。私たちは出来ることならしんどいこと、苦しいこと重荷に感ずることはやりたくないのです。それから逃げ出そうとする。でも労苦を担うことは決して意味のないことではない。その労苦が思いもしなかった成長を私たちに与えてくれることがある。人間が大きくなる、人として成長して一皮むける、そういうことが本当に起こるのです。教会学校の皆さんもこれから色々な経験を通して成長して大人になっていくのですが、その中には辛いことも苦しいことも一杯あると思います。でもそれは自分が成長するために必要なことであることを忘れないで、目の前の問題から逃げずに頑張って取り組んでもらいたいと思うのですね。
 そこでもう一度、試練について考えてみましょう。試練は一体どこから来るのでしょうか。聖書には「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と書いてあります。試練は突然、襲うようにして私たちの身に起こるのです。ですから私たちは驚きます。「えっ」と思います。試練から身を守ろうとしても出来ない。請わば試練に対して私たちは無防備です。避けようがない。でも、聖書は、沢山の試練を私たちは経験せざるを得ないのですが、耐えられなかったような試練はなかったはずだというのです。試練は苦しい。辛い、悲しい。試練が大きければ大きいぼど、私たちはそれに耐えることは難しい、そんなことは出来ないはずだと思うかもしれません。確かに私たち自身、人間の力では試練に耐えうることは難しい、いや出来ないはずです。愛する人を失う、自分や家族が重い病気に罹ってしまう。その悲しみや苦しみを自分で乗り越えようとしても克服しようとしても、出来ません。でも聖書は「人間として耐えられなかったような(試練)はなかったはずです」と言っているのは、神さまが私たちと共におられたので、どんなに大きな試練であってもそれに耐えられるように、神さまが助け支えて下さったのだというのです。そして「神は真実な方です」と教えています。突然に私たちを襲う試練はどこからくるかというと、神さまから来ると聖書は言っているのです。
 すると何故、神さまは試練を私たちにお与えになるのかということです。実は、神さまも私たちに試練を与えて、私たちを成長させることを願われているのです。それはただ大きくする大人にするということではなくて、私たちの人生にとって最も大事なこと、私たちが天の父なる神さまによって造られ、命を与えられ、それぞれに人生を備えて下さり、そこを生かし歩ませて下さっておられる。神さまが私たちの一切の責任を負われて共に生きて下さる。この絶対に失われることのか、真実に立って、信頼して自分に与えられた命を喜びと感謝に溢れて生きる、そのことを神さまは試練を通して私たちに知らせ、それを忘れることがないように訓練されるのです。試練の練というのは練習の練ですね。野球やサッカーや色々なスポーツ、ピアノなどの音楽、それから色々なお仕事ですね。それは頭でだけ理解していればすぐに出来るかというとそうではない。体に覚えさせていくでしょう。自動車の運転もそうですね。神さまを信じる生活というのも体に染みこませていく。覚えさせていく。そしていざというときにはしっかりと神さまに顔を上げて、神が共におられるという最も大事な事実に立って、じやあ、どのように歩めば、神さまがお喜びになられるか、何が神の御心にかなうことなのか、考えて、そして実際に生活する。試練というのは私たちの信仰がさらに強められ、深められ成長させられるそういう恵みの機会なのです。
「どんなときでも」という賛美歌があります。この賛美歌の歌詞を書いたのほ、高橋順子さんという、病気のため8歳でこの世を去った方です。福島県にある教会のCSに通われていた女子でしたが癌に罹り、病床でこの賛美歌の歌詞を書いたそうです。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの愛をしんじて」「どんなときでも、どんなときでもしあわせをのぞみ、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの愛があるから」。順子さんは神さまから病気という試練を与えられ、その試練を通して、イエスさまをお与えになった天の父なる神さまの愛を我が身に知ることが出来たのです。そして試練に耐える勇気と力と希望を与えられ、生涯を神さまを信じて歩み通されたのです。
 今日の聖書の最後に、神さまが「逃れる道を備えていてくださいます」と書いてありましたが、この逃れる道というのは出口のことです。神さまは必ず試練の時、私たちと共におられ必ず希望の出口へと導いて下さいます。
 苦しいことや悲しいことがあり、試練と向き合いながら歩んでゆかねばなりません。でも神さまが試練を通して、共に試練の時を歩んでおられることを教えて下さいます。そしてその試練に耐えられるよう力と希望を与えて歩ませて下さいます。順子さんのようにどんなときでも苦しみに負けず、くじけずに、イエスさまを信じて歩んで参りたいと思います。