福音は救いをもたらす神の力

ローマの信徒への手紙1章16~17節

 「わたしは福音を恥としない。」とパウロさんは申しました。「福音を恥としない。」とは、福音を恥ずかしいものとは思わないということです。もう少し踏み込んでいうなら、「わたしは福音を信じる。」とパウロさんは私たちに言い表していると言っていいのではないかと思うのです。

 するとパウロさんが信じると言っている「福音」とは、いったい何のことでしょうか。福音というのは、イエス・キリストのことです。イエスさまのことを自分は恥とはしない、イエスさまのことをイエスさまだけをわたしは信じますとパウロははっきりと言い表すのです。それは、イエス・キリストがユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、そのほかどんな人間であっても、イエスさまを信じる人には救いを与える神の力だからだとパウロさんは言うのです。わたしたちは、いろいろな力が欲しいと思います。病気の人やけがをした人は、それが治る力が欲しいと思います。お金が欲しいと思う人は、お金を得る力が欲しいと思うかもしれません。でも、たとえどんな力を持つことができたとしても、力というのはだんだんと弱まっていき、ついには失われてしまいます。暑い夏が終わり、だんだんと秋に近づいてきました。あれほど元気に鳴いていた蝉もいなくなってしまいました。人間もだんだんと年を取り、力を失っていきます。病気になることも、いろいろと思い悩むことも、苦しいことや辛いこともあるでしょう。そうして人間は衰え、そしていつか必ず死んでしまいます。目に見える力というものは、弱まっていき、必ず消えてしまいます。

 でも、福音はそうではない、私たちの救い主となられたイエスさまが、十字架の詩より甦られたお方です。死の力によっても取り去られることのない力をイエスさまは私たちにお与えくださったのです。十字架での死によって、わたしたちを天の父である神さまと結び合わせてくださったのです。神こそがわたしたちを本当に救う力です。わたしたちの命を造り、生かしてくださる。神さまを信じて生きる力をお与えくださったのです。神さまがいつでも、どこでも、わたしたちを助け、支え、守ってくださる。そのことを信じる時、わたしたちは生きる確かな希望と勇気を与えられます。「全地よ、主に向かって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、褒め歌え。」と詩編にありますが、このように神さまに顔をあげて、横路美と感謝にあふれて人生を歩むことができます。でもそれは、辛いことや悲しいことがなくなるということではありません。でも、神さまがともにおられ、助け支えてくださることを信じて生きる。そこには、先ほど紹介したように、喜びと感謝がわたしたちの命と生活の中に起こされていくのです。

 神さまがわたしたちに求めておられることはただ一つです。福音であるイエスさまを信じる。信じてイエスさまとともに生きる。そのことを何よりも願っておられるのです。