今、使徒信条という私たち大人が礼拝で毎週告白している大切な教えについて勉強しています。先週は、寺島千都子先生から、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という個所についてお話をしていただきました。今回は、それを受けて、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」についてお話をします。この個所は、新約聖書の「ヨハネの黙示録」というところに詳しく書かれています。わたしも、今回お話をさせていただくにあたって、読んでみようとしました。すると、目まぐるしく登場人物が入れ替わり、次々に不思議な出来事が起こるので、頭が混乱して、とても理解できそうにありませんでした。それで、目次を見ながら、ところどころ読んでいくことしかできなかったのですが、確かにキリストが「かしこ」から来られる。かしこというのは、天ということです。天から降りてこられて、その時には、死んでいる者も甦り、生きている者と一緒にひとりずつ審判を受ける。裁かれるというのです。ミケランジェロの描いた「最後の審判」では、中央にいるイエスさまの右側には、さばきによってよしとされた者が描かれ、永遠の命を与えられる。そして左側には、よしとされなかった者が描かれ、かれらは再び火の池に投げ込まれ、永遠の死を迎えることになる。しかし、いつその審判の日がくるのか、いつイエス・キリストが私たちのところに来られる再臨と言われる出来事が起こるのかは、はっきりとは示されていません。
このキリストの再臨という出来事については、私のようなキリスト教における素人・初心者にとっては、疑問に感じることがたくさんあります。素直に受け入れられないと言った方がふさわしいかもしれません。まず、その点について、正直にお話します。
一つ目は、生きている者が死んだとき、裁かれる、審判の時が来るというのだったら、すんなりと受け入れられそうなのですが、再臨の時、生きている者と死んでいる者がいっしょに裁かれるというは、どういうことなのでしょうか。私たちは死んだあと、その魂がいったん陰府に下り、キリストの再臨の時まで、陰府で、待たなくてはいけないのでしょうか。私たちは信徒が亡くなられたときに、召天されたという言葉を使います。天に召されたということですから、死んだらすぐに天に行けると思っていました。正直に言うと、陰府でいつまでも待つのは嫌ですという身勝手な感想です。
二つ目は、私たちキリスト者は救われた者、罪を赦された者として裁きの時に、救われると言われています。では、キリスト教を信じていない人たちはどうなるのでしょうか。身の回りにはキリスト教以外の宗教を信じている人もいれば、無信仰な人もいます。その人たちは、キリストによって救われることはないのでしょうか。身近にはたくさんの親しい人がいますが、そのほとんどはキリスト教には無関係なのが現実なのです。
三つめは、最後の時っていつなのでしょうか。最後の時って聞くと、今を生きている人たちは、恐ろしい想像をせずにおれません。戦争、核兵器、環境破壊、地球温暖化、社会や生活の変化、それらの現実を見ていると、明るい未来は見えてきにくいものとなっています。最後の時というのは、破滅するのではなく、救いが完成するときと言われていますが、ヨハネの黙示録21章に書かれているような新しい天と地が訪れると簡単に信じて、今の現実から目を背けたり、現実をそのままにしておいてよいとは考えられません。
勝手なことをお話しましたが、聖書を批判しているつもりではありません。前牧師の野村先生が、こんなことを話してくださいました。「何でも信じるのではなく、疑問を持つということは、大事なことなのですよ。その疑問を通して、キリスト教の理解が進み、信仰が深まるのです。」
ですから、私が感じている疑問は、心の中にとどめ続けていきたいと思います。聖書は奥の深い神秘な書物で、今の自分には理解できないことがいくつもあります。しかし、信仰を続ける中で、神さまがその答えを示してくださることがあると信じます。死んだ後に、答えが示されるものもあるのではないでしょうか。そして、生きている者にとっては、死んだ後のことは神さまやイエスさまにお委ねするしかありません。生きているうちにできること、それを誠実に行って死んだ時に、天に召されて審判を受ける。しかし、審判の結果、私たちが天から追い出されることはないそうです。なぜなら、イエスさまが罪を贖い、十字架にかかってくださったからです。
それを聞くと安心するのですが、私は、最近よく考えます。イエスさまの十字架の出来事は2000年前に一度だけ起こった出来事ではないということです。寺島先生の説教で教わりました。その後も、人間が罪を犯すたびに、十字架にかかり続けてくださっているというのです。自分も人間ですから、本当に様々な形の罪を犯してきました。今も犯し続けています。日常生活の中のいろいろな場面で、悪魔のささやきに誘い込まれそうになります。その結果、人を傷つけてしまたり、傷つけておきながら気が付いていないことだってたくさんあると思います。そんな時、イエスさまが十字架の上で、私の罪を贖い続けてくださっている。その結果として、私は今、生きることが赦されているのです。そのことを知ることができたことは、キリスト教にかかわらせていただいて、一番自分にとって、良かったことです。
教会に通う前の自分は、自分の力で生きていると思っていました。うまくいったら、自分の力のたまもの、努力の結果とうぬぼれていました。うまくいかなかったら、運が悪い、自分には力がないと自暴自棄になったり、ひどい時には、人のせいにして、不平不満を募らせていたこともありました。しかし、教会に通うようになり、神さまに生かされていることを知ってからは、日常の当たり前に感謝できるようになってきました。うまくいったら、神さまの恵みと感謝する。うまくいかなかった時は、神さまのご計画と身を慎み、次に備えられるようになりつつあると思います。
今回お借りしたテキストに、最後の審判というのは、「私たち人間を断罪するのではなく、背きを赦し、赦された者として地上の生活を歩みぬく力を与えられ、そして天国に迎え入れてくださるという宣言なのですよ。」という説明がありました。その中の「赦された者として地上の生活を歩みぬく力」とは何なのでしょう。今日のお話の原稿を考えているときに「贖い」という言葉の意味を調べていて、こんな説明に出会いました。「贖い(あがない)とは、自分の罪と向き合うこと。昔の過ちと向き合って、良い行いを重ねていくことです。」という説明があったのです。なるほどと思いました。私たちはイエスさまの十字架に贖いを求めるだけでなく、今の自分の罪と向き合うことが大切だと分かりました。キリスト教では、私たちの罪がよく取り上げられます。みんな罪人だと言われます。時にそのことを忌まわしいと感じるのも正直な気持ちです。人間なんだから仕方がない。ほっといてほしい。そんな気持ちになることだってあります。しかし、罪を意識して、過ちと向き合い、良い行いを重ねることで、自分自身を贖うことができるのです。罪を赦してくださってありがとうございましたと私はよく祈ります。しかし、イエスさまの贖いに心から感謝して祈っているのか、それとも口先だけの祈りなのか、それを知るためには、自分自身が過ちや罪とどれだけ真剣に向き合えているかということを自問自答することが大切なのだと感じました。「赦された者として地上の生活を歩み抜く力」のもとは、イエス・キリストの十字架での贖いを知ることです。そして、その恵みに心から感謝して、自分の罪と向き合いながら誠実に自分に備えられた道を歩んでいけば、必ず、天国に迎え入れられる。そのことを宣言しているのが、最後の審判なのだということを知ることができました。
ここまで、お話して、最初にお話しした疑問が少し解けてきたように思います。
一つ目の疑問は、陰府でいつまでも待つのは嫌だということでしたが、私たちは審判を待つ必要はないということです。きっとこの世の歩みを終えた時にはすでに裁きを受け、そのまま天に召されることなのでしょう。
二つ目の疑問は、親しい人はどうなるのかということでした。赦された者の祈りを神さまは聞き入れてくださるはずです。ですから親しい人も一緒に天に迎え入れてくださると信じます。
三つ目の疑問は、いつ審判の時が来るのかということです。今の私たちには明るい未来は描きにくいものとなっています。しかし、私たちには、できることがあります。自分に与えられた道を誠実に生きていくことです。イエスさまの教えを守ろう、そして広めようと努めることです。世の中には、キリスト者でなくても、イエスさまに喜ばれるような生き方をしている人がたくさんいます。そういう生き方をしている人がいるのならば、増えていくならば、神さまは地球を破滅させたり、人間を滅ぼしたりすることはないと信じます。だから、私たちは、キリストの再臨、裁きの時を喜んで待ちたいと思うし、その時はもうすでに来ているのかもしれません。