ローマの信徒への手紙8章31~34節
今から78年前の今日8月6日に広島では原爆が投下されました。今日は、原爆記念日と呼ばれていますが、戦争を繰り返す人間の罪を考え、平和のために祈りを合わせたいと思います。
イエスさまは、十字架にかかり死にましたが、三日目に甦り、わたしたちの罪は赦されました。そして弟子たちにイエスさまのことをのべ伝えなさいと言われ、天に昇られたのです。ところで、天とはどんなところでしょう。それは、神さまのおられるところです。そして、イエスさまは、神さまの右に座っておられます。右というのは神さまと同じお方ということで、神さまの力強い右の御手となれらたのです。
ところで、「だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。」と今日読んだ聖書の箇所には繰り返し、「だれが○○でしょう。」という表現で書かれていますが、これは、神さまの愛からはだれも引き離すことはできないということを強調しているのです。なぜなら、キリストが右に座して、とりなしてくださるからです。では、イエスさまは神さまの右で何をされているのでしょう。それは、わたしたちのためにとりなしてくださっているのです。とりなすというのは、わたしたちが誘惑に負けたり、間違いを犯してしまったりしたときにも、神さまのもとに戻ってこられるように、そして信仰がなくならないように、一人一人のために祈ってくださっているということです。
礼拝には、わたしたちは、それぞれに自分の意志で集まっています。中には家族に言われて集まってきた友達もいるかもしれませんね。でも、ここに来れているのは、イエスさまのとりなしの祈りがあるからで、わたしたちは、イエスさまの祈りに支えられて生かされているのです。わたしたちは、毎日の生活の中でいろいろなことがあります。うれしいこともありますが、困ったことや悩むことも多いと思います。病気になることだってあります。生きている限り、試練が与えられるのです。自暴自棄になってしまうことだってあるかもしれません。しかし、どんな時にもイエスさまは天から聖霊をおくり、わたしたちの生活を導いてくださいます。
イエスさまや聖霊は目には見えません。90才のあるご婦人がこのように話されました。「90才にもなると物はいらないのよ。目に見える物は、本当は大事なものではないの。目に見えないものの中に本当に大事なものがあるでしょう。」わたしたちは、神さまの愛やイエスさまのとりなしの祈りを信じて生きていきたいと思います。神さまの導きを信じて委ねて生きていきたいと思います。感謝と希望を忘れずに生きていけば、神さまは最もよい道、もっともふさわしい道を与えて、私たちを導いてくださると信じたいです。