イエスさまは裁きを受けてゴルゴタの丘の十字架に架けられます。朝9時のことでした。昼12時を過ぎるとあたりは不気味な暗闇に包まれました。それは神さまが罪人をお見捨てになるという恐ろしい裁きを表していました。そして昼の3時、イエスさまは「神さま、神さま、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、息を引き取られました。十字架の下で百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」とイエスさまを見上げて言いました。遠くからマグダラのマリアさんたちがこの十字架の出来事を見守っていました。アリマタヤのヨセフという人がイエスさまのご遺体を引き受けることになりました。イエスさまが本当に死なれたことが確認され、十字架から降ろされたイエスさまのご遺体が引き渡されました。イエスさまは亜麻布に包まれ、ヨセフさんが自分のために用意していたお墓に安置され、葬られたのです。お墓は大きな石で塞がれました。マグダラのマリアさんたちも見届けました。もうすぐ金曜日の日没、安息日が始まろうとしている頃でした。
聖書は、イエスさまは確かに十字架に「死んで」、「葬られ」た、と言っています。イエスさまは神の子なのだから苦しんだり死んだりするのなんておかしい、と疑問に思う人や仮死状態だったのではないか等々、考える人もいるかもしれませんが、聖書はイエスさまの死を丁寧に伝えて本当のことだったと言っています。罪のない神の子であるイエスさまが神さまに見捨てられて十字架に死なれ葬られた、このことはとても重要なことなのです。
本当なら、神さまに対して罪を犯すわたしたち人間が裁かれ十字架にかけられ滅ぼされるはずでした。しかし神さまはそうはなさらなかった、それどころか、神さまの独り子をこの世に送ってくださいました。そして罪のない神の子イエスさまがわたしたちの身代わりとなって裁きを受けてくださったのです。見捨てられるはずだったのはわたしたちだったのに、イエスさまがすべての人間の代わりとなって捨てられたのです。わたしたちのために十字架にかかって下さり、わたしたち人間と同じように「死んで葬られる」ことで神さまの救いの御業が成し遂げられたのです。
「よみ」とは「死の世界」のことです。「よみ」という言葉は旧約聖書にも新約聖書にも出てきます。それによれば、死んだ者はよみにくだる、「よみ」とは神さまの光が届かない、神さまの力が及ばない断絶されたところ、罪を裁かれて滅んでいく世界であると考えられていました。そこへ、イエスさまがくだっていかれたのです。聖書(ペトロの手紙Ⅰ 3.18-19)には、葬られたイエスさまがよみにまでくだって伝道された、とあります。神さまの光の届かないとされた「よみ」にまでイエスさまはくだってくださり、神さまの言葉が届かない世界に福音が語られたのです。見捨てられ希望のない世界にイエスさまが立ってくださったということです。それはこの死の世界にも神さまの力が及ぶことを示しています。神さまのこの救いは生きている者だけでなく、死んだ者をも救われるのです。つまり、神さまの愛が及ばないところはないということなのです。「よみ」にイエスさまが来て下さったということは、もはや、よみ(神さまから隔たれた死の世界)はないのだとも言えます。ここに大きな深い神さまの愛が示されているのです。
「罪が支払う報酬は死です」という言葉が聖書にあります。わたしたち人間は本当なら神さまに罪を犯したために死ななければならない、しかし罪のない神の子イエスさまが死刑によって死なれたのはわたしたちのため、わたしたちが生きるためであったのです。そして神さまの力が及ばないところはもうないのです。わたしたちもやがては肉体が衰えて死んでいきますが、わたしたちはもう「死」を怖がらなくてもよいのです。
イエスさまの十字架によって、神さまはわたしたち、ひとりひとりにこれほどまでに愛されている尊い存在なのだと示してくださいました。このように愛されている自分を忘れずに、感謝して歩んでいきたいと思います。