ヘブライ人への手紙2章14~18節
もうすぐ夏休みが始まりますね。先生にも夏休みの思い出があります。麦畑に潜んでいて飛んできたオニヤンマを網を使って捕まえた思い出があります。家に持ち帰って、糸を付けて飛ばして遊んだものでした。あと、わたしの故郷には、新川という川がありました。そので割りばしの先に針を付けてウナギをとりました。針に巻き付いたウナギがとれたものでした。小さいウナギだったので、川に逃がしてやった思い出があります。また、こんな思いでもあります。花火大会に行った時のことでした。父とはぐれてしまい、うろうろと歩いていると、地面にあった大きな穴に落ちてしまい、出られなくなってしまいました。その時、男の人が手を差し伸べて助けてくれました。あの時、あの人が見つけてくれなかったらどうなっていたことでしょう。わたしは、神さまか天使であったと思っています。
ところで、平和通りという通りが松山にありますが、その通りには、イチョウの木が植えられています。西から数えて10本目の木の枝の先の葉が十字架の形になっているのですよ。わたしは、仕事の途中に信号待ちでそこに止まることがあります。その十字架の葉を見ると、仕事の疲れが取れて、励まされる思いがします。今日のお話のテーマである「十字架につけられ」ですが、イエスさまは、先週お話が合ったように、母マリアさんから生まれました。しかし、今日の個所ではいきなり十字架に付けられとなっているのです。イエスさまによってなされた数々の恵みの出来事については、「使徒信条」には一切記されていません。イエスさまが幼かったころを描いた絵画に十字架に向けて歩かれているものがあります。よちよち歩きをしているイエスさまの影が十字架になっているのですよ。そんなイエスさまがローマの裁判官ピラトのもとで十字架に付けられて犠牲となられました。しかし、その犠牲によって私たちは、神さまに祈ることができるようになったのです。