聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ

マタイによる福音書1章18~25節

 イエスさまはマリアさんの子どもです。お母さんはマリアさんですが、お父さんは、私たちと同じような形では、おられませんでした。わたしが、学校で先生をしていた時、クリスマスの前にイエスさまの誕生の話を毎年していましたが、このところを読むと、「先生は科学なんてしなかったらよかったんではないですか」と生徒に言われたことがありました。父と母がいて、子どもが生まれるというのが、理科で教えることです。だから、聖書のこの個所には、いつも葛藤がありました。

 しかし、退職して、何年も経つうちに、だんだん自分の中に葛藤がなくなってきました。イエスさまには、この世の人と同じようなお父さんがいなくてもいいと思うようになったのです。その理由は、イエスさまはそのようにお生まれになりましたが、イエスさまご自身がそのことを自覚して、神さまのみ言葉やみ旨を果たしていったからです。生まれた時のことばかりを考えるのではなく、その後でイエスさまがしていったことを考えることが大切です。イエスさまは、神さまから自分に与えられた仕事をしようとしました。いろいろな人たちの反対にあいました。そして、とうとう十字架にかけられ、私たち人間の罪のために命を落としました。しかし、そのあとで復活されたのです。そのように一生を視野に入れて考えると、誕生の出来事に関する葛藤は、あまり気にならなくなったのです。

 イエスさまの誕生については、確かに普通には理解しがたいことです。しかし、普通にイエスさまが生まれたのなら、私たちの記憶からは忘れられていきます。イエスさまが、私たちの葛藤を生むような形で誕生されたことも、神さまのご計画の一つであり、そのことによって、私たちは、イエスさまのことを忘れず、注目し続けることができるのだと思います。