ヨハネによる福音書1章14~18節
先週は、寺島先生から、天地の造り主の神さまについてお話をしていただきました。何もないところから、すべてのものをお創りになったということは、わたしたち一人一人の人間も神さまがお創りになったということです。ここにいる○○ちゃんも○○ちゃんも、もちろんお母さんのお腹で誕生し、大切に育てられて、このように立派に成長されているのですが、命のもとは神さまがお創りになり、その成長を支え、見守ってくださっているということは、普段はあまり考えませんよね。
わたしも、自分の誕生については、ずっと不思議に思っていたことがあります。自分はどうして男に生まれたのだろう。どうして女でなかったのかな。なぜ、日本の松山という町に生まれたのだろう。なぜ、アメリカで生まれなかったのかな。どうして今の時代に生きているのだろう。どうしてもっと昔の例えばイエスさまが実際に生きておられた2000年前の時代に生きていなかったのだろうな。そんなことを考えることがあります。その答えは、ずっとわからなかったのですが、教会に通い、牧師先生や教会学校の先生のお話を聞くうちに、少しずつ分かってきました。それは、神さまのご計画(お考え)なのだということです。みんなそれぞれに自分だけのものを備えられています。自分と同じ人間なんて、この世には一人だっていません。そして神さまから備えられたものを生かして、みんなで助け合って生きていけるように、神さまが、ご計画を立て、私たちは生かされているのでしょうね。
神さまのご計画は、とてもすばらしいものなのだと、私は、信じています。今、私たちは、城東教会に集まってCSの礼拝を守っていますね。これも神さまのご計画のはずなのです。教会学校で○○さんや○○ちゃんたちと知り合えたこと。一緒に、神さまについてお勉強ができること。お話のあとには、一緒にゲームをしたり、パズルをしたりすることだってできます。それって、素晴らしいことだと思いませんか。別にとか、当たり前のことじゃないのとか感じるかもしれませんが、ここに集えたのは、私たち一人一人に家族があるからです。そして健康があるからです。そして、みんなそれぞれに仕事をしたり学校で勉強をしたり、神さまから備えられた道を歩ませていただいているからなのですね。神さまがいつも私たち一人一人を大切に思って、守ってくださっているからなのですね。
しかし、神さまのことを私たちは、よく忘れてしまいます。普段の生活の中で、私たちは、神さまに守られて生きていることを忘れ、自分の力で生きているように思っている場面がいつもあります。自分の力で生きているように思っているときは、神さまのことを忘れていますから、感謝をしません。神さまにありがとうございますということを忘れてしまうのです。ありがとうございますということを言わない代わりに、「なんでこんなことになるんだ。」とイライラしたり、「自分はダメな人間だ。」と落ち込んで自分の殻に閉じこもってみたり、「あいつのせいでこうなったんだ。」と人を攻撃したり、そんな気持ちになってしまうってことは、私にも、あります。わたしたち人間は、神さまに愛され、たくさんの恵みの中で生かされていることを忘れてしまうという罪を、だれもが抱えていると、牧師先生は、いつものように言われます。たしかにその通りだと思います。
では、どうして、私たちは、神さまのことを忘れてしまうのでしょうか。それは、神さまが私たちには見えないから。そして、私たちは、見えないものを信じることができないからですと、今日のお話のテキストには書かれていました。確かに、私たちは、神さまのお姿を見ることはできません。だから、神さまが私たち一人一人を愛し、見守り、道を備えてくださっているということを信じることは難しいことなのです。そこで、神さまは、私たちに、姿を見せてくださったのです。「えっ?いつ?どこで?」と思うかもしれませんが、2000年以上前に、ユダヤの国で、イエスさまという神さまの独り子を私たちの世に送ってくださって、神さまのお姿やお考えを示してくださいました。そのお姿やお考えは、聖書を勉強すると、少しずつ分かってきます。今日、司会の先生に読んでいただいたところに、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と書かれていました。
神さまの独り子のイエスさまは、ベツレヘムというユダヤの小さな町の馬小屋で飼い葉おけの中でお生まれになりました。マリアさんとヨセフさんに育てられ、大きくなりましたが、大人になっても強くてかっこいいヒーローにはなりませんでした。もちろんなろうと思えば、神さまの独り子ですから簡単になることはできたのですが、反対の道を選ばれました。とことん弱くなられたのです。そして、何も知らない人間によって十字架にかけられ、命を落とされてしまったのです。しかし、イエスさまは、生きている間、苦しんでいる人や悩んでいる人のところを回り、その手をとり、苦しみや悲しみを共に感じてくださいました。そして私たちの罪が赦されるように祈ってくださいました。イエスさまの十字架での死によって、命を懸けて私たちの罪が赦されるように神さまに祈ってくださったことによって、私たちが逃れることができない罪から赦され、私たちは、このように神さまに祈ることができるようになったのです。
私たちは、聖書を学ぶことを通して、イエスさまのお姿やお考えを知り、それを通して、神さまのお姿やお考えを感じ取ることができます。教会に通うことって、実はとっても大きな恵みなのだということが分かりますね。それから、わたしは、今日のお話を考えていて、思ったことがあります。もしかしたら、今のこの時代にも、神さまは、その大切な子どもを送ってくださっているかもしれないということです。神さまの独り子がイエスさまとは姿を変えて、目立たないようにこの世で歩んでらっしゃるかもしれないということです。「隣人を愛せよ」というイエスさまの教えが聖書に書かれています。「周りにいる人を自分と同じように大事にしなさい。」という教えですが、そういうことを実践している人の姿に出くわすことがよくあります。感動的なお話をして、マスコミなどでも時々紹介されることがありますが、私には、こういう体験がありました。〇島という島が松山市にあるのですが、そこに自転車で行って島を一周していた時のことです。島ですので、どこからも海が見えます。自転車で走る狭い周回道路のそばには、ミカンの木がたくさん植えられ、ちょうど収穫の時期だったと思います。道路のすぐそばの小さな道におじいさんが倒れているのです。顔から血を流していました。そのおじいさんは、自転車に収穫したミカンを積んで、たぶん親戚かだれかにそれをプレゼントしようとしていたようです。坂道の段差にタイヤがひっかかったのでしょう。転倒して、顔面をうったようでした。その隣に、地元の人らしい男の人が一人座り込んでいました。わたしは、その光景が横目にちらっと見えたのですが、帰りの船の時間も気になっていたことがあり、そのまま行き過ぎてしまいました。でも罪悪感が高じてきて、遅ればせながらですが、引き返して行き、「何かできることはありませんか。」と隣にいた男の人に聞いてみました。携帯で連絡を取り合っていたらしく、引き返したときには、二人に増えていました。いろいろなところに連絡を取るのに忙しかったらしく、得にどうしてほしいという返答はなく、意識もしっかりされていたし、連絡もとれているようだったので、わたしは、しばらく様子を見ていた後、また自転車に乗って港に急ぎました。港に着くまでには40分ほどかかる距離だったのですが、その時に感動的な光景に出会いました。途中の道で、現場に向かう搬送車にすれ違ったのです。救急車ではなく、軽トラを改造したような車でした。運転していたのは、救急隊員ではなく、おそらく地域の普通のおじさんでした。そして、港に着いた時、赤色回転灯をつけた漁船が出港したのです。おそらく、さっきの血を流されていたおじいさんが、搬送車で運ばれ、今度は漁船が変身した救急艇に載せられ、松山の大きな病院に運ばれて治療を受けることになるのでしょう。島の人たちのチームワークのよさ、命を守るリレーのすばらしさに感動して、涙がうっすらと浮かびました。この時、自分は何もできなかったのですが、島の人たちの姿にイエスさまの存在を感じました。隣人を大切にする。島の人たちは一つの家族であるというような意識を、島の人たちは持っているのでしょう。
イエスさまを感じることができる人が、私たちの身の回りにはたくさんいるように思います。もちろん、いつもイエスさまのように隣人を愛することができる人であり続けることはできないかもしれません。でも、日々の生活の所々で、イエスさまに喜んでいただけるような自分でありたいなと思います。イエスさまに喜んでいただけることは、神さまの御心に適うことのはずです。神さまに守られ、いろいろなものを備えられて生かされている自分。そのことに心から感謝をして、今週も歩んでいきたいと思います。