「ゆるす」という言葉は、今の漢字では「赦す」と書きますが、元は、「赤」(へんの部分)に「支」(つくりの部分)という漢字が当てられていた時期がありました。この漢字には、「鞭で打つ」という意味があるそうで、イエスさまの背中は鞭打たれ、真っ赤に腫れあがって血が出ていたことを連想させます。
わたしたちは、赦されて初めて、涙と共に改心します。どこかでそんな経験があるので、わたしたちは、教会と繋がっているのではないでしょうか。
「彼らをお赦しください。何をしているのか知らないのです。」十字架の上でそう祈ったイエスさまの言葉を身近で聞いていた二人の囚人がいました。そのうちの一人は改心して、イエスさまに、「わたしを覚えていてください。」と声を掛けました。これは、信仰告白の言葉です。なぜ、この時、この囚人は、イエスさまを信じることができたのでしょう。ゴルゴダに向かう道で、この囚人も十字架を担がされたイエスさまを見ていたに違いありません。この人は、自分たちとは違うということを感じ取ったのでしょう。そして、十字架上での祈りを聞いた時に、奇跡が起こり、この囚人は改心したのではないかと思います。
わたしたちも、聖書を開いて、み言葉を聞くとき、聖書が私たちに語りかけてきてくれると感じることがあります。わたしは、兄がギデオン教会からもらってきて机の上に置いたままにしていた聖書を、兄から譲り受けました。読んでいくと、ヨハネ伝の「はじめに言があった。」という書き出しに出会い、すごいと思ったことを印象深く覚えています。聖書は、確かに自分に向かって語り掛けてくれる書物なのです。