ローマの信徒への手紙8章26~30節
今、主の祈りの学びをしています。先週は、「み国を来たらせたまえ」というところについて、教わりました。そして、今日は、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」というところがとり上げられています。
ところで、この主の祈りは、イエスさまが弟子たちに祈り方を教えた場面で、マタイによる福音書とルカによる福音書に出てきます。しかし、今日取り上げる「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」については、ルカによる福音書には出てきません。ルカによる福音書では、祈りが終わった後にイエスさまに質問した一人の弟子に応える形で、祈り方を教えました。新約聖書の127ページの11章2節以下にあるように、
「父よ。御名が崇められますように。み国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」と教えられており、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」については記されていません。
一方、マタイによる福音書の9ページ6章9節以下には、には、有名な山上の説教の中で、この祈りが取り上げられています。
「天におられる私たちの父よ。御名が崇められますように。み国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように地の上にも。」と、私たちがいつも唱えている「主の祈り」と似た形で記されているのです。ただ、少しだけ順番が変わっており、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と主文が「御心がおこなわれますように」となっています。
ルカによる福音書には、今日の個所が記されていませんが、それはどうしてなのでしょうか。その理由については、十分にわかりませんが、ルカさんがうっかり忘れていたとか、軽んじられていたわけでは決してないようです。そのことは、その後に出てくるイエスさまの祈りの姿の記述にふれるとよくわかります。
最後の晩餐の後、イエスさまは、ゲッセマネの園に行かれて、いつものようにお祈りをされました。その場面は、ルカによる福音書にも出てきます。ゲッセマネに着いた時、イエスさまは、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、園の奥に進んでいかれました。そして3人に向かって「私は死ぬほどに悲しい。ここで目を覚まして祈っていなさい。」と言われ、少し離れたところに行って地面にひれ伏して祈り始められました。
「アッパ(お父さん)、これから起こる十字架のことを思うと、とても恐ろしいです。わたしが十字架の上で死ぬ以外に、すべての人間の罪が赦される道はないのでしょうか。十字架で死ぬのを免れることはできないのでしょうか。私のこの苦しみを取り去ってください。」
このように祈られたというのです。イエスさまは、神さまの子ですが、私たちと同じ人間です。だから、十字架にかかることは、想像すらできないほどの怖さであり、絶望であったはずです。弟子たちに「死ぬほどに悲しい。」と言われたり、父なる神さまに「死ぬことを免れることはできないのでしょうか。」とお願いされたりしたイエスさまの御心は、同じ人間として想像することができるものでしょう。仮に自分がもしこの場面のイエスさまであったなら、もっともっと取り乱した形で、神さまに縋りついてお願いしたに違いありませんし、聞き入れてもらえないとわかると絶望して、神さまを呪うような言葉すら口にするかもしれません。
ところで、イエスさまは、最後に、こう祈られました。「わたしは勝手なお願いをして、それをきいていただこうというのではありません。わたしが願うことではなく、神さまのお考え通りになさってください。」
長い時間がたち、ついにイエスさまの祈りは終わりました。イエスさまは、今、ご自分がすべての人々の救いのために、十字架にかかって死ぬことこそ、神さまの御心であることを確信されたのです。イエスさまは、父なる神さまを信頼し、すべてを神さまに委ねられることを決心しました。そして「立て、行こう。」と十字架の道を歩みだされました。
わたしたちの祈りは、「わたしの願いをかなえてください。」という祈りであったり、場合によっては、「御心を変えてください。」という祈りにすらなりがちであると今日のテキストには書いてありました。まったくその通りだと思います。わたしも辛く苦しい場面に立たされた時には、それが神さまの御心であるかどうかなど考えようともせず、何とかしてくださいとただただ縋りつく、そんな自分中心の祈りになってしまう弱い一人の人間です。そんなわたしに与えられたのが、今日のこの主の祈りについての学びなのでしょう。
しかし、自分の思いや考えを離れ、純真に神さまの御心が行われることを祈り求めることの難しさは、想像を超えたものであることは間違いないと思います。自分が苦境に立った時に、ゲッセマネでのイエスさまのように、神さまに対して、「わたしの願いではなく、神さまの御心にかなうことが行われますように。」と祈ることができるでしょうか。信仰の弱い私などは、そんなことはできるはずがないと始めからあきらめてしまいそうです。しかし、今日の聖書の個所「ローマの信徒への手紙8章26節」に記されているみ言葉は、そんなわたしに、かすかな希望を与えてくれます。「“霊”も、弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです。」と書かれています。
苦境に立ったわたしは、おそらく祈り方を忘れ、自分のことばかりを縋りつくように祈るものになっていることでしょう。しかし、そんなわたしを聖霊が助けてくださると聖書には書かれているのです。言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださると書かれています。「言葉に表せないうめき」とはいったい何なのでしょう。私たちの苦境や苦しい胸の内を知った聖霊は、きっと、きれいに整った言葉で祈ることはできないのでしょう。それほどに、私たちの心の内を真剣に知り、感じ取り、ともに苦しんでくださるのが、聖霊なのだと知りました。その聖霊は、うめきをもって、神さまに私たちを赦してくださるように祈ってくれます。そして、同時に、私たちに、神さまの御心を感じ取らせてくれるのも、これも聖霊の働きではないかと思いました。
ゲッセマネの園で血が滴るように汗を流しながら祈られていたイエスさま、その傍らには、聖霊がうめきをもって、イエスさまの祈りをとりなしてくださっていたのかもしれません。最後に、「御心のままに行ってください。」と祈りを締めくくられたイエスさまを導かれたのも、聖霊のとりなしの祈りであったのかもしれないのです。
私たちのそばにも聖霊がいて、とりなしてくださっていることを信じます。神さまの御心を問い求めることは、むずかしいことでしょう。しかし、聖霊のとりなしと導きがあれば、こんな自分にも神さまの御心を求めようとできるかもしれません。そして、そのことを後押ししてくれるのが、教会であり、礼拝だと思います。今日、ここで、このようにお話をさせていただくことの恵みに今、改めて感謝したいと思います。
教会に通う前の自分に祈りがあったとすれば、それは自分の幸せや都合だけを願う祈りでしかありませんでした。しかも、祈りを捧げていたのは、いったい誰に対してだったのでしょう。地域にある神社や仏閣は、自分の思いを受け止め、それに応えてくださるものではありません。思い通りにならないことに対する不平・不満に心を支配され、その苦しみをぶつけることのできる確かな存在をもつことができず、自他を傷つけてしまいそうになる弱い自分がありました。しかし、教会に通う中で、本当の神さまについて知り、祈りについて学ぶうちに、祈りの時や場は、神さまと心を通い合わせる接点であることを学びました。神さまには、私たちと同じようにお心があり、お考えがあります。そして、神さまは、私たちが想像することのできないほどに繊細で、深い愛に満ち溢れたお方なのです。
自分の願いがかなえられないと感じる時、そんな時には、神さまの御心を信頼し、ただひたすらに神さまの御心を聞き求める時であることを、今日の聖書の個所やゲッセマネでのイエスさまの姿は教えてくれます。イライラした時、落ち込みそうになった時、願いがかなわないと嘆きたくなる時、重荷に耐えかねられなくなりそうな時、そんな時、神さまは私たちと同じように、苦しまれています。そして、私たちと気持ちを通じ合わせようとされています。神さまの御心を尋ね、求めることのできるとても大切な機会なのかもしれません。
そして、その時、自分の思いのみで祈るのではなく、神さまの御心が行われることを祈ることができる自分でありたいと願います。神さまは、どんなときにも神さまを信頼し、御心を求め続けようとする私たちの信仰を一番喜んでくださるはずです。そのことを心にとどめ、神さまに問い求める生活、祈りを軸として足元をしっかりと地に据えた毎日を過ごしていけることを願い、祈り続けたいと思います。
最後に一言祈ります。
ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。神さまは、一つ一つの出来事や一人一人の存在が、すべて益となるように、恵みを与え続けてくださっている方です。そのことを信じ、神さまの御心に適う歩みができますように、一人一人を導き、お支えください。
連休も終わり、暑く長く続く夏への入り口に差し掛かりました。教会の信徒一人一人の健康や生活をどうかお守りください。
この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。