説教(2020年2月月報より)「生きてはたらかれる神」

「多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」とあるのは,使徒達の集まり,つまり最初の教会ともいえる使徒達の,たった12人の集まりによってなされた事でした。12人とは,反逆者ユダを除く11名の弟子達に,特別に選ばれたマティアを加えた小さな集団でしたが,心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた,と書かれています。主が生きて働いておられることを信じて,心を一つにしていたからこそ,このような多くの著しい業をなすことが出来たのでした。最初はこんな弱い集団には,誰も加わろうとはしませんでしたが,その業を見た民衆は彼らを称賛し,多くの者が主を信じて,その数は次第に増えて行ったのです。一見,全く無力にみえる,12人の集団は,神の御旨によって強い力が与えられ,大きな集団になって行ったのです。現代でも小さくて無力にみえる教会では,牧者も信徒も無力感と心細さにとらわれ勝ちでありましょうが,決してその必要はない。神が,力ある業で必ず助け給うのです。
弟子達が奇跡を行うことが出来たのは,決して彼ら自身が大きな力を持っていたからではありません。復活の主の力によるものでした。ここに書かれた出来事自体が,神の業が現われ,主が現に生きて働き給うことが明らかになるために起きたことでした。病める人の存在も,このためでした。病める人は罪を犯した人である,という考え方は洋の東西を問わず存在します。それは今もあるのです。多くの人がこれに悩んでいます。ある牧師は,病にかかった時,一番苦しかったのは,神のことが分からなくなったことだ,と言われました。我々も時折,この思いに陥ることがあります。何故なのだろう。神は,何と意地悪な方なのだろうかと。聖書の中の病める人達も同様でした。しかし,ここで思い起されるのが,イザヤ書53章の言葉です。「彼が担ったのは,わたしたちの病,彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。我々の罪から生ずる病と痛みを,主御自らが負うて下さったという事です。自ら我々に近づき,これを荷ない,救い主となって下さったのです。
ヨハネによる福音書9章1節に書かれている出来事は,本日の聖書箇所と関係深い事です。生まれつき目の見えない人を見かけた弟子達が,主に尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは,だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも,両親ですか。」主はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも,両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」主は今日も,我々一人一人と共に歩んで下さいます。主は,実に今生きてい給うのです。これが我々の生きる希望なのです。