説教(2025年4月月報より)

「心の清い人々は幸いである」

寺島謙牧師

マタイによる福音書5章8節 

 主イエス・キリストの言葉「心の清い人々は,幸いである。その人たちは神を見る。」に聴きたいと患います。心の清い人々とは、徳にすぐれ,倫理的に正しい人々だ,と言っているのでしょうか。
そうではありません。心が清く幸いな人々とは、キリスト者のことです。主を信じる人々を指しているのです。世の人々も概ねそのように見ているようですが,キリスト者と自認している私達も本当にその通りでしょうか。純真な信仰をもっているでしょうか?幼な子が,全く親に頼り切っているように,私達は,その全てを主にゆだねて生きているかどうか。幼な子と同様に,私達は無力です。全く何も出来ないのです。そもそも私達は,どこから来たのか。神の似姿として,かけがえのないものとして創られ,今もその御守りの中に置かれている貴い存在が私達です。赤子がその親に対するように,ひたすら目を神に向け、信頼して生きるのが、心の清い者です。新約聖書のヤコブ書に,きびしい言葉があります。「ふた心の者どもよ,心を清くせよ。」(口語訳)
 私達信仰者に尊敬されている旧約聖書のダビデ王は,万能の人でした。何事においてもぬきん出た、優れた人で,しかも神を信じる人でした。しかしこのダビデが,大きな罪を犯してしまいました。(旧釣聖書サムエル記下,11章)自分の部下ウリヤの秦バト・シェバの美しさに迷った彼は,王の権限でクリヤを激戦地に送り込み,戦死させて,バトシュバを己のものとしました。これを預言者ナタンに指摘され,自らの罪に気付いた彼は,心の底から罪を悔い,神に赦しを乞い求めました。この祈りが詩編51篇です。罪の赦しを祈り求めた切々たる言葉が続いています。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください,わたしが清くなるように。」(9飾)このヒソプとは、香り高い木で,十字架上の主イエスが,亡くなる直前に受けられた葡萄酒をつけた木であります。ただ主イエス・キリストの十字架のみが,私達の罪を赦し,私達を救うことが出来る,ということを暗示しているのかも知れません。
 本音8章に,主イエスが重い皮膚病の患者に触れ,その病を清めて癒された記事が書かれています。病を癒されただけではなく,罪も赦されたと思われます。私達の人生にも様々な苦しみ,悩みがあります。その中で,常に共におられ,助け給うのが,父なる神です。
「神を見る」とはどういう事でしょうか。「神を知る」ということです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神,この方が神を示されたのである。(ヨハネによる福音書1章)私達は,キリストによってのみ神を知るのです。