9月15日

 

み言葉のそそぎ

 

「生きるにしても、死ぬにしても」
9月15日礼拝説教 須田拓牧師
ローマの信徒への手紙14章1 ~9 節  申命記 6章4~5節
「床に就くときにも御名を唱えあなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします」(詩編63:7)。夜をどのように過ごすのか。私たちは、昼忙しく働いているときだけ生きているのではない。むしろ、夜、既に床についてから何を考え、何をしているか、というところでも生き方を問われる。そのようなとき、夜になって主イエスを訪ねたファリサイ派の議員ニコデモのことを思い起こす(ヨハネ福音書3:1以下)。人目を避けたのか、昼、主イエスを訪ねる勇気がなかったのか、といぶかるひともいる。しかし、夜の静けさを選んで主イエスを訪ねた勇気はほめてよい。主イエスのことを見聞して、夜になると眠れない思いをしたのかもしれない。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うこと時できない」と言っているのだから、主イエスのわざが気になったに違いない。そして、主イエスと出会う。高価な香料を携え、主イエスの埋葬にまで立ち会っている(19:39)。おそらくのちに教会員になったのではないかと思う。夜、祈りをくちずさみながら、主イエスのことを問い始めた歩みは、遅々としていても、新生へと向かうものであったのである。
*み言葉の放つ光に生かされて 加藤常昭氏著作より引用(本日の説教内容とは関係ありません。)