11月10日

「ペトロを叱責する主」
11月10日礼拝説教 磯村滋宏兄
マタイによる福音書 16章21~23節


 イエスキリストの一番弟子とも言えるペトロを主は激しく叱責なさいました。「サタン引き下がれ。」これ以上の激しい叱責はありません。ペトロが主の十字架について「そんなことがあってはなりません。」と主イエスを諫めて、十字架上の死を思い止めさせようとしたのは弟子として当然のことでありました。完全に正しく罪の無い愛に満ちた方が、そんな惨い死に方をなさるのは全く理にかなわない、道理にあわない、そう考えたペトロは、「脇へお連れして諫めた。」とあります。私はペドロが次のようなことを言ったのではないかと想像致します。「十字架は苦しいですよ。あなたは何も悪いことをしていません。そんな不合理な苦しい道は避けましょう。人の道、真理の道を我々に示してくださる先生がいなくなれば我々も困るのです。」このように話しましたが、主の最強の言葉をもってこれを退けられました。ペトロの言葉は、サタンの誘いの声であります。主ご自身が最悪の苦痛とたたかっておられたその戦いに水をさす言葉でありました。  

 私は長い間。深い考えもなく、神の御子イエスは父なる神のご命令でもある十字架の死を、ある意味では喜び勇んで。受容なさったというふうに感じ取っておりました。しかし、その間違った理解を正された思い出があります。かつてこの松山城東教会に何度かお招きしたことのある吉田先生は、説教後の懇談会で先生が、次のように言われたのです。「主イエスは十字架上の死を非常に嫌がられたのです。」 「嫌がられた」と言う言葉を今も鮮明に覚えております。私は「あれ。」と思いました。主イエスキリストは神のため、また、人間への愛のために。苦痛と知りながらむしろ。喜んで十字架上の死をとげられたのではなかったのか?日本の仏教のある僧侶の中にも、火あぶりの刑に処せられる前に「心頭を滅却すれば、火もまた涼しい。」と豪語して、死についた人がいたと聞いております。「心を無にすれば、火だって涼しいものだ。」という意味でしょう。まして、真の神の御子が、このようにできないわけはなかろうと単純に考えておりました。もちろん私も、主のゲッセマネの祈りを知っておりました。主が「できることなら、この杯を私から取り除いてください。しかし。私の願いどうりではなく御心のままに。」とこのように切実に祈られました。またルカによる福音書には「汗が、血のしたたるように地面に落ちた。」とも書かれています。これを今読み直してみると、私の従来の受け止め方は浅いものだったと思わされます。吉田先生のおっしゃるとうりだったのです。主イエスは神の御子であられると同時に、肉体を持つ人間そのものでもあられました。そして、その口から出た言葉には一つの偽りも、取り繕いもなかった。主イエスは、極度の苦痛を伴う十字架をできることなら避けたかった。そして、それをありのまま口に出されたのであります。そしてその上で、ご自分は父なる神の御心に従うことを決意されたのであります。これこそが主の十字架であります。私どもは、これ以上のことを知ることはできません。しかし、主の十字架の苦痛を思いやることは許されることかもしれません。いかに深く大きな苦しみがあったことでしょでしょう。  

 まずは肉体的な苦痛です。私などは、例えば、歯の治療の時などに感ずる小さな痛みにさえも尻込みしたくなることもありますが、主の受けられた痛みは想像のできないような耐え難いものであったでしょう。手のひらに太い釘を打ち込まれた。痛さの極みであったでありましょう。  

 第2に、精神的な痛みであります。よく知られているように、現在、わが国ではどんな重犯罪人の裁判の折にもその場の写真を撮ることや公表することは許されておりません。公表されるのは、昔ながらの人手によるスケッチだけであります。これはどんなに重い罪を犯した人に対しても人道的な扱いが必要である。その罪の裁きを受ける現場を世に晒すことは許されないという考えであります。ところが、主イエスの十字架の場合はどうであったでしょう。まさにその晒し者にされました。しかも衣服をはがされ、多くの人々の目に晒された。わが国にも旧の時代には。市中引き回しの上、打ち首、そして晒し首、というひどい刑罰があったようですが、主イエスの十字架はそれ以上のものだったでありましょう。6時間もの間、耐えがたい苦痛と恥を忍びつつ。父なる神に自分の命を委ねておられた。しかも同じ十字架にかけられた重罪人2人に囲まれた位置に置かれた。主イエスも正真正銘の重罪人とされたということです。  

 さらに3番目。これこそ主イエスの最も深い苦しみがあったでありましょう。命が絶える前に叫ばれた最も重い言葉「我が神、我が神。なぜわたしをお見捨てになったのですか。」。」マタイ27章46節、マルコ15章34節。真の神の御子、一点の罪も犯されなかった主イエスには、常に父なる神が共にいました。これは聖書の中の多くの場所に書かれていますの神が十字架にかかって、苦しんでおられる主イエスから、姿を隠されたのです。我々が聖日ごとに告白する使徒信条の中に。「陰府にくだり」という言葉がありますが、まさにこのことでありましょう。人類史上、これほどまでに苦しい死は、なかったかもしれません。  

 当然ながらこれは、有名な絵画にも彫刻にも、また音楽にもなって我々に訴えかけております。余談になりますが、大作家バッハの作曲した「マタイ受難曲」という曲があります。私もCDを持っておりまして何度か聞いておりますが、これについて今はもう故人となられ、た「吉田秀和さん」という音楽評論の第一人者(文化勲章受章者)でもある方が、こんな文章を書かれていたのを読んだことがあります。「そんなことは現実にはあり得ないが、もし仮に地上の音楽を全て廃止して一曲だけ残せと言われたなら、私は躊躇なく、このマタイ受難曲を選ぶ。」というものです。私にはヘンデルの「メサイア」もベートーベンの「第九シンフォニー」も捨てるわけにはいかないと思いますが、吉田秀和氏の気持ちはわかるような気がいたします。  

 さて、今朝の御言葉の続きに目を向けてみましょう。ペトロに対して「あなたは私の邪魔をするもの、神のことを思わずに人間のことを思っている。」と、主は言われました。それは。ペトロをサタンと呼んだ事の説明になっているのでしょうか。主ご自身が避けたいと切に願っていること(十字架上での死)への強い支持と賛同の言葉が、逆にこの時は主を誘惑した。最も強力な悪魔の誘惑であったことでしょう。弟子さえも同じことを言ってくれている。この強くて苦く甘い誘惑を、主は一撃のもとに退けられた。このことが、真の神の独り子の姿であります。これこそが真の神の独り子のお姿であります。人類を救うという神のご計画を遂行するために、人間的な思いやりを一刀のもとに切り捨てられた。これこそが主の確固たるご決意でありました。  

 聖書に記された公の人生を歩まれる前に、主は、サタンの誘惑を受けられ、打ち勝たれました。主はペトロに対して「神のことを思わず、人間のことを思っている。」という言葉はマルコによる福音書にも、そのままの言葉で出ているのです。これこそが主の十字架の要点であります。  お気づきの方もおられるかもしれませんが、マタイによる福音書によれば、この直前に主イエスは、ベトロをこの上なく信頼のおける弟子としてお褒めになったのです。ペトロは「貴方こそ真の御子です。」と告白しました。このペトロに対して、主は喜ばれた。その真理を知らせたのは、天の父である神であること。ペトロに天国の神を授け、ペトロの上に教会を建てるとまで言われたばかりでした。主イエスから信頼の言葉をかけられた人間ペトロとしては死を十字架の死から守ろうとする気持ちになっていたことは当然のことであったでしょう。しかし、それはあくまでも人間的な思いでありました。神の御子が、苦難の十字架上の死を遂げることによって、人間の罪を贖うという矛盾の極みでもあることこそが神の御心であったのです。この場合、ペトロの言葉は。この神のみ御心に反することでもあったのです。  

 福音書の4章に書かれています。「この石をパンに変えてごらんなさい。高い屋根から飛び降りても怪我をしないところを見せてごらんなさい。この私を拝んだらこの世の栄華を全部あなたのものにする。これらの三つはすべて主イエスの力で可能なことでありましたが、主は、一言の元にこれらを退けられた。そうして神の御子としての歩みを始められたのであります。人間としての生涯を歩まれた主イエスは、たびたび誘惑をお受けになったに違いありません。今やすべての文明国には、頂上に十字架を掲げた建築の教会が建っています。十字架のペンダントをさげている人も多数おります。これらは結構なことだと思われますが。我々キリスト者は、これらの背後にイエスが激しい戦いの末に勝ち取られた勝利があることを覚え、週ごとに思い起こすことが大切なのではないでしょうか。そして、そこからは必ず生きる勇気と慰めが与えられるのではないでしょうか。