今日の聖書のお話の中で、イエスさまはものすごく怒っておられます。イエスさまが何に対して怒られたのか?イエスさまがろばに乗ってエルサレムの街に入られ、まず神殿に伺われました。そこで売り買いをしていた人たちを皆追い出されました。言葉で追い出したのではなく、腰掛を倒すという激しいやり方で追い出されたのです。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された」とあります。

 両替人や鳩を売る者というのは神殿へ礼拝に来た人々に神さまへの捧げ物を売ったりしていた人です。当時のユダヤではローマ帝国のコインが使われていて、そのコインには皇帝の肖像と名前が刻まれていました。そのようなコインを神殿で献金としてささげるのはふさわしくないと言うことで、献金のためのコインが決められていて、両替人は人々が持ってきたローマ帝国やギリシャのコインを献金用のコインと両替していたのです。

 その両替時には高い手数料が取られたようです。また鳩を振るものとある「鳩」とは、神さまへの捧げものでした。本当はヒツジやヤギをささげるのですが、高価で買えない人は鳩を買って捧げていたのです。でも、遠くから何日も旅をしてエルサレムに礼拝に行くのに、家から鳩を連れて行くなんて無理なので、そんな人のために神殿の境内で鳩が売られていました。それはいつもより高い値段で。それは祭司達の重要な収入源になっていて。最良のものを神さまに捧げたいという礼拝者の心を利用し、貧しい人を苦しめる要因にもなっていました。そんな両替人や鳩を売る人、また、それを買っていたお客さんまでもイエスさまは激しく怒って追い出されたと言うのです。開業

 「そして言われた。こう書いてある。私の家は『祈りの家』と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」とあります。この強盗という言葉の意味ですが、強盗というのは相手の事などお構いなしに自分の欲望を満たそうとすることを表しています。神殿に集まってきて、礼拝のために両替や鳩を売り買いしていた人は、たとえ法の規定や決まりに従って捧げ物をしていても、また礼拝をしていても、自己満足のための礼拝、神さまのことを思わず。神さまの御言葉に聞こうとせずに形だけ礼拝をしているなら、それは強盗の集まりですよと、イエスさまは怒られたのです。

 エルサレムの神殿に集まっていた人々は、信心深く振る舞っていても、本心では神さまを信頼していませんでした。人々が決まりを守って礼拝していても、そこに心からの神さまへの愛がなければ、それは礼拝ではない。イエスさまはおっしゃいます。祈りの家である神殿がただお金儲けの場となり、人々が神さまを信じることを忘れている。そのことにイエスさまは怒れたのでした。

 また、「目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、イエスはこれらの人々を癒された」とあります。目の見えない人や足の不自由な人たちは、神殿に入ることを禁じられていました。けれどもイエスさまが神殿から売り買いをしていた人たちを追い出された後、目の見えない人や足の不自由な人たちは神殿の中に入り、イエスさまのそばに近づいて行きました。「この行動には、『主がわたしたちを憐れんでください』という祈りが込められている」とある牧師先生は言います。イエスさまはその人たちの祈りに応えて彼らを癒されました。これが神さまが祈りの家でなさる御業です。

 このイエスさまの不思議な技を見て。子供たちが「ダビデの子にホサナ」と叫びました。イエスさまが神殿の中で両替や鳩を売り買いしていた人をとても荒々しく怒られても、子供たちはイエスさまを怖がらずイエスさまが来られたことを歓迎していました。イエスさまは、子供たちのことを、「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。本当に必要なことは心から祈ること。イエスさまを求め、賛美することですよということです。イエスさまが神殿の中に入られて何に怒られたのか、よくわかっていたのは目の見えない人、足の不自由な人、それからたくさんの子供たちでした。

 祭司長や律法学者たちは、子供たちの賛美を聞いて腹を立てました。神殿で乱暴に怒ったイエスさまが救い主と呼ばれている事にた対してでした。するとイエスさまは、「『幼子や乳飲み子の口にあなたは賛美を歌わせた』という言葉を読んだことがないのか」と言われました。これは詩篇の言葉で、この個所は救い主を予言するみ言葉として知られています。ここでイエスさまは、ご自分こそみ言葉が予言する救い主だと告げておられます。のちにイエスさまは怒った人たちの手に渡され、十字架にかけられます。今こうして私たちが神さまを礼拝できるのは、イエスさまの激しい闘い、十字架の苦しみがあったからでこそです。

 今日は神殿でイエスさまが激しく怒られた出来事から。心から祈ることの大切さを改めて示されました。自分自身を振り返り、「今日のお話の中の目の見えない人や足の不自由な人、子供たちのように心から神さまを信頼してすべてを委ね祈っているだろうか」と思わされました。形式にとらわれ、どのような奉仕をどれだけしたかとか、人の目から見た出来・不出来に心を奪われていないだろうかと考えさせられました。

 今日の聖書のお話の目の見えない人、足の不自由な人という表現から思ったことがあります。人は健康が守られて順調な生活を送れている時よりも、病気や怪我、さまざまな試練の中にある時に、より真剣にみ言葉に聞いて、神さまを信じる信仰・委ねる信仰が与えられるのではないかと思います。ヨハネによる福音書9章に「イエスさまが生まれつきの盲人を癒す」というお話があります。そこで弟子たちがイエスさまに「この人が生まれつき、目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか、それとも両親ですか?」と聞くとイエスさまが、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられました。人の目から見て、本当に辛く苦しい病や怪我や試練があります。なぜこの人にと思うことがあります。けれども、それほどの苦しみの中にこそ示される神さまの愛があると信じたいと思います。