(9月15日)たねをまく人のたとえ

 私たちはいつも神さまに守られて,、生かされています。毎日いろいろなことがある中で、私たちは、神さまのことを忘れてしまう時があるかもしれません。そんなときにも、神さまはひとりひとりのことを決して忘れず、守ってくださっています。

イエスさまは、そのことを、私たちに伝えるために、たくさんの例え話をお語りになられました。今日は天の国の例え話です。天の国とは次のようなものだと言われました。
ある人が畑の中に隠されている宝物を見つけました。その人は大喜びして、どうしてもその宝物を手に入れたいと思い、家に帰って自分の持ち物を売り払って、お金に換えて、そのお金で宝物が隠されている畑を買いました。持っていたものとお金をなくしてしまったけれど、その人は宝物を手に入れることができたのです。

もうひとつの例え話です。また、ある人は真珠をどうしても手に入れたくて探していました。そしてとうとう真珠を見つけることができました。でも、真珠を買うお金がありません。その人はどうしたでしょうか?やはり前の人と同じように、持っているものをすべて売り払ってお金に換えて、そのお金で真珠を買うことができました。

ここでは天の国は真珠に例えられています。それは神さまのみ心を受け入れて行うことで。どんな時でも共にいてくださるイエス様を信じて従う生活は、私たちの持っている何よりも価値があって、どんなことをしても手に入れるべきだと教えています。

このたとえ話で大事なことが二つあります。それは宝を見つけた時の喜びとその宝を自分のものとするために。喜んで全てのものを手放した態度だというのです。また、この宝は、たまたま見つかったのではなく、見つけた人が毎日の仕事をする間に見つかったというのです。その人は自分の仕事を真面目に一生懸命にしていて、だからを見つけた時も畑の中まで深くほっていたからだと考えられるのです。それは私たちが神さまを近く感じることができる場所のことを表していて、本当の幸せ、本当の満足、神さまの心、イエス様の存在は、私たちが毎日の生活を正直に正しい心で過ごす時に感じられるものなのです。

また、この宝物の例え話は、天国に入るとは、神さまのみ心を受け入れて行うことだと教えています。人が宝物を見つけるように、ある時、突然、神さまの自分に対するみ心が見つけられた時、それを受け入れるために、それまで大切にしていたものを手放して、イエス様に従っていく。神さまの御心を受け入れて、それを行うということは、実は自分の持っている全てを手放すほど、価値のあることだと言えるのです。

そして、3つ目の例え話は、世の終わりについてです。世の終わりと聞くと、ちょっと怖い気持ちになりますが、大丈夫です。イエス様は「世の終わりの時、天の国に入れるかどうかは、漁師が魚をより分けるように、天使によってより分けられる。」と言われました。ここで大切なことは、人が人をより分けてはならないということです。網によって魚が集められるように、神さまが私たちを見つけてくださって、天の国に導き入れてくださる。つまり、私たちが努力して天の国にたどり着かなくてもよいのです。良いものと悪いものを分けるのは神さまであって、私たちではありません。私たちは何が良いことで、何が悪いことかを完全に知っているつもりになって、人を評価してしまうことがありますが、それほど私たちはその人について十分には知らないのです。すべてをご存知なのは神さまだけだと教えられます。神さまだけが世の終わりに裁きを行うことができます。私たちは罪人なので、今日の例え話の魚に当てはめると投げ捨てられるべき魚と言えるかもしれません。でも、イエス様の十字架によって、私たちは罪を許されたものとして歩むことができるので、安心して感謝して過ごしたいと思います。

今日は、三つの例え話を学びました。すべてをご存知の神さまが、いつも私たちを守り導いてくださっていることに、あらためて感謝したいと思います。そして、私たちは、そのことを忘れないために、毎週の礼拝を大切に守りたいと思います。