ヨハネによる福音書13章12~20節
今日のお話は、イエスさまがお弟子さんたちの足を洗ったというお話です。人間となられたイエスさまは、先生となって神さまの教えを周りの人たちに広めようとしました。でも、一人ではできませんので、12人を弟子として選び、特にその人たちと共に行動して、その人たちを大事に育て、神さまの教えを世界中に広げようとされたのです。
足を洗うということに戻りますが、わたしたちも砂場で遊んだ時、海に行った後など足を洗うことがありますよね。でも、このお話は2000年も前の出来事で、しまもイエスさまに足を洗ってもらったお弟子さんというのは、子供ではなくて大人です。なぜ、大人が足を洗ってもらったりしたのでしょう。当時の人たちは、今の人のように靴を履いて生活していませんでした。今でいうサンダルのようなものを履いていたそうです。しかも、今のように道路は舗装されていません。みなさんの学校の運動場と同じように、土のままなのです。砂埃が立ちます。しばらく歩くと、足は、ほこりや砂まみれになってしまったようです。それで、家に帰った時やよその家を訪ねた時には、その家の入口にたらいがあって、そこの水で足を洗ってから家に入っていたそうです。また、その当時の偉い身分の人やお金持ちの家には、召使い(奴隷)がいて、ご主人様の足洗は、その人たちの仕事だったということです。一番身分の低い人がしていたのが、足洗いです。みなさんは、人の足を洗ってみたいと思いますか。「きたないからいやだ。」という声が聞こえてきそうです。では、人に足を洗ってもらいたいと思いますか。「くすぐったいからいやだ。」「そんなことを人にしてもらうのは申し訳ない。」そんなに思うものだと思います。
聖書には、イエスさまは、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで吹き始めた」と書かれています。腰をかがめ、あるいは跪いて、弟子たちの前にしゃがみ込み、一人一人の足を、まるで召使のように、丁寧に洗い、きれいに拭き清めたのです。弟子たちは、きっと驚いたことでしょう。「止めてください。」と叫んだ弟子もいたに違いありません。一番弟子のペトロもそうでした。順番が回ってきて、自分のところにイエスさまが、大きなたらいと足ふきの雑巾のようなものを持って来られました。そして、自分の前に跪いて、足を洗う準備を始められたのです。ペトロは、「あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」と尋ねました。「わたしの足など決して洗わないでください。」と言った後、聖書の記述にはありませんが、「先生にそんなことをされると、申し訳なさ過ぎて、わたしは、生きてはいけなくなります。」きっと、そんな台詞もあったと思われます。それに対して、イエスさまは、「わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」という返事をされました。NO!とは言わせない厳しい言葉です。
どうしてそんな召使いのような仕事をイエスさまが行ったのか。その答えは、今日読んだ聖書の言葉の中に出てきます。イエスさまは、低くなること、そして人に仕えることを、自らの行動を持って、弟子たちに伝えたのでした。低くなるというのは、偉そうにすることの逆です。仕えるというのは、人のためになるようにまごころを込めて動くということです。イエスさまは、これまでも、病気に苦しむ人たちや人から嫌われている人たちのところを回っていきました。目が見えない人、重い皮膚病の人、足が立たず寝たきりの人、そういう人たちのもとを訪ねて回り、勇気や希望を与え続けてきた人でした。病気が治ったり、体の不自由が取り去られたという奇蹟が起こった話が聖書にいくつも出てきますが、奇蹟が起こらなかったとしても、だれにも相手にされず、孤独と苦しみをじっと我慢してきた人たちにとって、イエスさまが訪ねてくださったという事実は、大きな光となったことは間違いないと思います。
イエスさまは、ずっと低くなり続け、人に仕え続けて来られたのです。そして、今日は弟子たちに同じようにされました。弟子たちは、自分の足を丁寧に拭いてくださるイエスさまの手をじっと見付けられていたことと思います。そして、イエスさまが自分たちに示してくださった愛に心から感動し、感謝したことと思います。そして、イエスさまは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とおっしゃいました。お互いが低くなり、仕え合う生き方をしていきなさいというイエスさまの教えです。自分を低くして人に仕えるって、どういうことでしょう。わたしたちは、イエスさまがおっしゃるような生き方をしようとすると、大きな壁にぶつかります。どうしても自分がかわいいし、自分が第一なのです。自分優先で周りの人はその次の次、そのまた次なのです。そして、周りの人に対して、嫉妬します。反感を持ちます。敵意を持つことだってあり、自分のことは棚に上げて人を攻撃したりすることだってあるのです。どうしてかと言えば、私たち人間は罪人なのです。わたしは罪人などではないよ、それは別の人のことだ、わたしにまでそんなひどいことを言わないでくれとおっしゃるかもしれませんが、自分の心を冷静に見つめてみてください。日常のいろいろな場面で、悪い思いが沸き起こってきます。悪い思いと言うのは、人を馬鹿にする気持ちだったり、人を自分の欲望のために利用しようとする気持ちだったりします。人間には、罪が生まれつき備わっており、その罪を自分の力でなくすことは決してできません。
イエスさまは、最後に十字架に掛けられました。罪は全くないのに、自分たちの身分を守ろうとした人たちによって有罪にされ、十字架の刑を受けることになってしまったのです。しかし、それは、イエスさまが無駄に死ぬことではありませんでした。人間の罪をイエスさまが引き受けられたのです。足をふくと、ぞうきんは汚れます。使い続けるとぼろぼろになることでしょう。イエスさまは、人間の罪、つまり汚れを自らが雑巾となって、そしてぼろぼろになって、すべて拭き清めてくださったのです。イエスさまのおかげで、わたしたちの罪は赦され、神さまに受け入れられ、神さまの子として生きることが赦されました。そのことを忘れることなく、私たちは、イエスさまに倣い、周りの人たちに低くなって接し、周りの人たちに仕える生き方をしていくことが望まれています。これは、イエスさまの願いであり、神さまの一番喜ばれる道です。じゃあ、具体的にどういう場面でどういったことをしたらいいんだろう。それを示してほしいと言われるかもしれませんね。でも、そのためには、一人一人が神さまに問い求めながら、「こんなことがありました。どうすれば一番良いのですか。教えてください。」と神さまに問い求め、祈り続けることが大切だと思います。神さまは、その祈りに直接に応えてくださるわけではありません。しかし、何かを指し示してくださいます。どんな道を選んだとしても、神さまは必ず一番良い道を拓いてくださり、すべてをよいものに変えてくださいます。
私たち教会には、教会員同士が祈り合うことがあります。病気になったり困難の中にいる教会の仲間のためにお互いが祈り合うのです。その姿は、イエスさまが教えてくださったものだと思います。互いを低くして、仕え合う。一人の祈りは一つしかありませんが、たくさんの人が祈り合ったら何重もの祈りに変えられます。神さまのもとにきっと届くはずです。十字架に掛けられてぼろぼろになり、命を落とされたイエスさまですが、3日後に甦り、今も生き続けておられます。それは、私たち教会に集う者たちの希望です。これからもイエスさまを信じ、従っていく生き方を続けていけますように、どうか一人一人をお導きください。
最後に祈ります。ご在天のイエスキリストの父なる神さま。今朝は、弟子の足を洗ってくださったイエスさまについて学ぶことができました。イエスさまの十字架によって罪を赦されたわたしたちですが、今でもなお罪を犯してしまいます。そんな私たちの罪をイエスさまは、わたしたちの足を洗うことを通して日々清めてくださっています。そんなイエスさまに感謝し、わたしたちも身を低くして周りの人に仕える生き方ができますように、どうか神さま、お導きください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。