「心の清い人々は幸いである」
寺島謙牧師
マタイによる福音書5章10節
山上の説教が進みます。「義のために迫害される人々は,幸いである,天の国はその人たちのものである。」ここで言われている「人々」とは,直接的には主の目前で説教を聴いている弟子達のことですが,旧約聖書に書かれている古えの大預言者たち(イザヤ,エレミヤ等)ほ,いずれもこれに当てはまり,大きな迫害を受けた人々でした。勿論,新約のベトロ,パウロ達(ベトロは,逆さまに十字架にかけられたと伝えられています)も,さらには我が国の多くの信者も同様です。東予分区のある教会の会堂には,その歴史を示す,投げ入れられた大きな石が保存されているとの事です。
何故迫害を受けたのでしょうか。「神の義」のためです。人々は,それぞれ違った「自分の義」が正しいと主張して,互いに争っているのです。神の義は,神の恵みであり,救いであります。「信仰によつて義とされる」という聖書の御言葉を,自分の事として聴かなけばなりません。
テモテへの手紙Ⅱの3章12節には,「キリスト・イエスに結ばれて信仰深く生きようとする人は皆,迫害を受けます。」とあります。これを覚悟しなさいという,パウロからテモテへのメッセージでしょう。私達は皆,迫害を恐れ,これを避けたいと願いますが,主イエスはこれを受けることは,幸いである,と言われます。主の義こそが,命の喜びであり,救いの喜びである,と言われるのです。人は,自分の義をかざして他人を裁き勝ちですが,これは間違いです。
創世記には,神が御自身にかたどって,人を創られたさまが書かれています。世には色々な人がいます。神につくられた私達は,自分の義によって人を裁くのではなく,神の愛に従って一人一人が生きるべきなのです。「正しい者はいない。-人もいない。」(ローマの倍徒への手紙3章10節)とは,使徒パウロが示した言葉です。これを忘れると,教会さえも分裂します。牧師は最近,実際にこれに近い場面に遭遇した体験をしました。神の義を忘れているのです。世界に目を向ければ,戦争が毎年,多くの人々を死に追いやっています。これももとをただせば,同じ原因からです。
私達は,このような私達をも赦す,神の義,神の愛に立ち帰らねばなりません。神の御独り子の十字架こそが,全てを赦す神の愛と義の源です。迫害を受けてもこれを耐え忍んだ信仰の先達たちも,「天の国はその人たちのものである。」という主の言葉を信じたからこそ,生涯を全うすることが出来たのです。こういう人々は,世界中に沢山います。私達も,「神の義」を信じ,これに従いつつ,今後も歩み続けたく願うものです。