説教(2023年9月月報より)

「これはわたしの体である」

寺島謙牧師

マルコによる福音書 14章22節~26節  

 今朝の礼拝は,世界聖餐日礼拝として捧げられます。前方のテーブルには,白い布の下に,パンとぶどう酒を入れた容器が置かれています。これが聖餐で,既に洗礼を受けた者,あるいは幼児洗礼を受けた後,信仰告白式を経た者が,これにあずかることが出来ます。これらが置かれている聖餐卓は,牧師と会衆の中間にあり,つまり,聖餐卓が我々の礼拝の中心であるということです。
 主イエスは十字架につかれる前夜,12弟子達と共に食事をされました。有名なダピンチの絵にもある通り,それは「最後の晩餐」で,ユダヤ人が守り続けてきた,過越の食事としてなさったのです。これは,約400年も遡る,出エジプトの出来事に起因しています。エジプト人に長らく虐げられてきたイスラエルの民を救出するため,神は,エジプトの全ての初子をほろぼされましたが,羊の血を入口に塗ったイスラエル人の家には,これを及ぼさずに,過ぎ越されたことに基づく祝いの食事です。ユダヤ人が,これを長らく守り通して来た気持は,我々にもよく分かるのです。今の苦しみ,悩みから早く解放されたいという気持ちです。しかし,解放されても実は問題は解決されないのです。次々に,また新たな困難が襲いかかって来るのが人生です。では,本当の救いとは,一体何なのでしょうか。
 真の神のみが真の救いを下されます。そのために,愛する御子イエス・キリストを世に降されました。そして,御自らの血を流された。動物の血ではありません。神の御子の血です。人間の罪を真に贖うためには,つまり代価を払って,本来神のものであった人間を神のもとに返すには,御子の血が必要であったということです。我々は,一人一人皆,神によって創られ,生かされているものであるにもかかわらず,自分の力で生きているという考えから脱しきれない罪を負っている者でした。「自分の力だ」,「神はいない」,「神は何もしてくれない」,という思いは,絶望につながります。この深い罪からの救いのために血を流されたのが,神の御子,イエス・キリストの十字架です。救いが真に実現したのです。これを思い起こさせるのが「過越し」であり,「聖餐」なのです。
 主イエス・キリストはパンを裂き,「これは私の体だ」と言われ,同時に杯をとり「これは私の血だ」,そして同時に,「これは,あなたの為だ」と言われました。父なる神のかたい御約束です。あなたを絶対に捨てないという約束です。我が国にも昔から血判というものがありました。指先を切り少量の血によって押印し,約束を絶対守る事を表しました。しかし主イエスは,御体から流れ出る血で約束され,命を落とされたのです。これが我々の真の希望であり,救いなのです。神はくりかえし,この希望へと招いて下さるのです。